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What i am? ~これから自分を探していく自分へ~

私は“自分を持っている人”が羨ましかった。
“自分”がわからなかった。

これは今まで“自分”の声を無視して周りの意見に流されて不自由ない生活に甘えていた代償だ。

そう気が付いた頃には、既に私はアラサーという年頃になっていた。周りの同期や同級生たちはほぼ結婚やママさんになっていた。

「kukoってさ、本当は自分はどうしたいん?」そう。自分がないことに本気で気が付かせてくれた出来事は、人生初めてお付き合いした恋人の一言だ。私は自分が分からないことに自覚だあったのでそこを突かれて素直に受け止められず“そんなの分からないものはわからんもん!!”と腹を立てる日々。どうしたらいいのか分からず悶々としていた私の理性も爆発してしまい9か月でお別れしてしまった。

これまでギリギリ抑えていた境界線はぶっ飛んでしまった。私は真っ暗で何も見えない地下に落ちて這い上がり方もわからない状態だった。心配する家族や周りの人からの励ましや前向きな助言を合わせ笑顔で感謝するふりをしていたが内心は“もうほっといて欲しい”とうんざりしていた。そう思う自分にも腹が立ってもう何をしたら良いのか分からなかった。

『あぁ、一人暮らししよ・・。』その時、浮かんだ思いだった。取り合えず、何かを変えないと同じことの繰り返しで何も変わらない気がした。

今まで不自由ない実家暮らしで一人暮らしは自分のことをするのが面倒で今が楽だからいいやっ!と行動しなかった。何より母が一人暮らしをさせるのは心配で許さなかった。

一人暮らしは何か導かれたように、そうなるようになっていたかのようにスムーズにできた。なにより母が許してくれたことにびっくりだった。引っ越しの色々を準備してくれた。

私の母という人は、専業主婦でいろいろ苦労をしてきた。私にも同じ思いをしてほしくないと思い一人でも食べていけるようにと「看護師はどう?それがいいわ。そしなさい。」と看護師になることを進めた。私は好きだった絵では食べていけないことは自覚していたので反論なくその道を歩んだ。まとめるといつも何かするときは“母に言わないと。”というのが私の心には常にあった。それが当然だったが反面一人で決めれない自分に腹を立てていた。

話を戻しまして、一人暮らしを始めてからは“自分のことが自分でできる楽しさ”があり、日々楽しく過ごせた。意外に自分は料理が上手いことも気づけタイムラインで写真を投稿して楽しんだり、一人自由な時間を過ごせてルンルン状態であった。

でも夜になると『自分はどうしたいの?』。呪文のように繰り返し私に問われているような感覚。またあの真っ暗な地下に連れ戻された感覚がたびたび起こった。

いつもは実家で誰かがいる。誰かの声や雑音が聞こえるなど気が紛れて考えなかったことが一人暮らしになるとそうもいかないですね。私は一人暮らしの人をものすごく尊敬した。私は寂しさとその呪文で気が狂いそうになっていた。

『だれか助けて!!!』誰か紛らわしてくれる人を探して出会い系サイトに手を伸ばしていた。何人かの男性とマッチングして気を紛らわしていた。求められれば体も許していた。性欲と誰か側にいてくれるということに身を委ねていた。

「すきだよ。」とそういって絶頂していった相手は体だけのお付き合いをしていた相手で、それを見て我に返った。“私、何してるんだろ。”と文字通り我を忘れて流され今までと同じように流されていたことに気が付く。

『もっと“自分”を大切にしないと。』と。気づいてからはそういう関係はすべて切った。この時から私は“自分”の声を意識してみることにした。

『自分はどうしたいのか?』。でも、今まで“自分”の声を無視してきたからどうしたらいいのかわからなかった。

なので、まず最初にしたのが。“自分”がしたいと思ったことをすることをすることだった。この時、結婚の予定もなく看護師の高収入だったことを感謝した。

取り合えず、自分の初めに思ったことを大切にした。そして、直感に任せて資格や趣味などを色々してみた。そして、色々な人が集まる会に行った。

集まる会には、年齢層は20歳前半~30歳後半の男女が集まり自己紹介が主に行われていた。みんなキラキラしていた。それは“自分”を持って自分で選んだ仕事ややりたいことをしているからだと思った。“格好いい。私もそうなりたい。”と憧れた。

私はその人たちの言われたことや教えてもらったことをそのまま真似をした。でも、その時から焦りや体調を壊していった。

『何がしたいんだろう。“自分”が信じられない。これでいいのか?』。また私はあの真っ暗な地下にいた。それまで続けていた資格勉強や趣味は長く続かなった。キラキラ人を見るのも会うのも嫌になり集まりには欠席しSNSやテレビも見なくなった。テレビ自体も存在自体が嫌になり売ってしまった。

母はテレビを売った私の行動に異常を感じて発狂し「あんた何考えてんの!テレビ売るなんて普通考えられへんわ!借金してへんやろな!あんた、いつも何考えてるのかわからんし、突拍子もないことするからな!お母さんあんたを育て方間違えたは!!」とまで言われ反論せずただただ頷いて黙っていた。

『どうせ、言ってもわからない。どうせ、お母さんは私の考えていることはすべて否定するでしょ。』、いじけた。私は小さい時から人とは違う風変わりな部分があり突拍子のない行動を繰り返ししていた。

その時、気が付いた。自分は“自分”と向き合うことに逃げていた。“自分”を信じられなかったのは素直になれなかったから。

どんなに辛くても逃げずに“自分”に素直に向き合うことが大切だ。どうやら、私は向き合っていたが戦うまでには至らずすぐに諦めていたのに気づいた。

私は、“自分”の思いを整理することが下手なことに気が付き。取り合えず、『なぜ?』と思ったことは早めにメモや文章に気が付いたら書きこんでいった。書いていくことで客観的に“自分”を見ることができ本当は何がしたいのか、何がいけなかったのかが見ることができた。

そのことを続けていくと“自分”の知らなかった部分が見えてきた。母とはまだ歪みが改善していなかったが精神的にも安定していった。

そうすると、少しづつ“自分”を客観的に見ることで人の目が気にならなくなった。それまで“自分”のことは大嫌いだったのが案外可愛いやつだということを思えるようになった。『なぜ?』と思うのは誰よりも探求心や情緒豊かだからだと自分の特徴に気づけた。

つまり、“自分”を大切にできるのは自分だけ。でも子供の頃みたいに何でも自分だけ見つめていくことが難しいのが社会といもの。それでも“自分”を見つめられる。必ずそこに戻ってこられるような余白の時間が必要だ。

振り返って、私は今まで起きたことや感じたことは無駄ではないこと、それがなかったら気付けなかったのでここまで頑張った自分をこれからも大切にしたいしこれからも無視せずに守っていきたいと思った。

今後もまだまだ私には今まで無視してきた分の課題を一つずつ解決していかないといけない。不安もあるけど私には“自分”というものがいるから戦い続けられる。

“自分の人生”を生きることは、落ち込んでまた真っ暗な地下に迷い込んで出口を探していく繰り返しだと思った。そして、自分だからこそ経験できること、負う傷があるからその痛みを誰かの支えや勇気になれたらいいと思った。

私が思う人生とは冒険で探検です。失敗を繰り返し困難や課題に向き合うことで新しい“自分”に出会える。自分の人生を楽しみましょう!

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