行けるものなら学校に行きたかった不登校児の話
僕は不登校児だった。
それはおよそ二十年前くらいのことだ。
小学校四年生~六年生、中学校二年~三年の間、不登校だった。
これはただの体験談である。
もう時代が違うし、すべての不登校のお子さんに当てはまることではないと理解して欲しい。
これは覚書だ。
僕という不登校児の記録。
どうしてこれを書こうと思ったかというと、僕にとっては不登校になったことで自分の人生が変わってしまったと言ってもいいからだ。
僕は学校に行きたかった。
行けるものなら。
でも行けなかった。
きっとそれを、弱さだと言う人もいるだろうし、それが間違っているとも言わない。
でも、これは戦いの記録である。僕というアラサーが、今になってなお心療内科に通い、カウンセリングを受け、どうにか仕事を探そうと努力している無職であること。
もちろんすべての理由が『不登校だったから』とは言えない。
だからこれは『僕の人生の記録』というただのメモである。
どこかの誰かに届けばいいなと思うし、届かなくても、僕は書いたことで気持ちがすっきりする。
無駄にはならない。
四年生の時、ゴジラぐらい怖い先生と出会う
元々僕は幼稚園ぐらいの頃から、幼稚園に行きたがらなかったと母から聞いた。
それは僕が、後ほど発覚することだが『人とのコミュニケーションは取れる程度の発達障害』があり『HSP』という敏感体質であることも、きっと理由ではあると思うのだが、つまり小学校に通うというのは既に辛いことだったのである。
小学校には幼稚園とは比べ物にならないほどの『ルール』があった。
僕は、それを何もかも真面目にこなさなくてはいけないと思った。
それは自分の性格なのかもしれないけれど、何もかも真正面から受け止めてしまい、雑にこなす、適当に力を抜く、という人生にとって必要なスキルが子供の頃にはあまり持っていなかったのである。
特に『当番(日直)』が大嫌いだった。
やることが多く、めちゃくちゃ緊張するからだ。
でも、かろうじて学校に行けていた理由は、三年生までは若い女性の先生が担任で、性格は違えどほがらかにジョークを交えたりなどして教えてくれていたから、楽しかったのだ。
クラス全体で先生の誕生祝いなどをしたり、楽しい雰囲気だった。
だが、四年生の時からは、中年の女性の先生……言葉を選ばなければ『おばさん』の先生になった。
ここから地獄が始まる。
もちろん、年を重ねた先生がいけない、という話ではない。
この中年の女性の先生、仮にM先生としよう。
M先生は後にPTAで問題になるほど、異常な先生だった。
給食の時はしゃべってはいけない。
ものすごい勢いで怒鳴る。
……たったそれだけ? と思う人もいるかもしれない。
でも、本当に異常だったのだ。
僕は、自分ではない他の子が強烈に叱られている様子を見て、『もし自分が叱られたら、心が壊れてしまう』と思った。
印象的な出来事がある。
僕は絵を描くのが好きで、子供の頃の話だがコンクールで賞をもらったこともある。
その絵の色が、ものすごく濁ったのだ。
学校で絵を描く授業はたびたびある。
先生が生徒たちの間を見て回っている時に、自分のところに来るとひどく怯えた気持ちになったことを覚えている。
その緊張の中で、花の絵はどす黒いというか、あまりにも濁った色で塗られていて、それを見つめながら『もうダメだ』と思った。
学校に行けなくなった
一家はパニックに陥った。
子供が学校に行かない、それは今ではある程度社会的に認知されているが、二十年前はやっと『不登校』『登校拒否』という言葉が新聞に出るようになったくらい。
僕はもう気持ち悪くなってしまって学校へは行けない。
特に半狂乱になったのは母親である。
母は、県外から嫁いできた身で、当時身の回りに友達もおらず、父の両親との同居でプレッシャーもすごかったようだ。
「行きなさいッッ!!!!!!!!」
猛烈に怒鳴られ、布団を引き剥がされた。
僕の心はズタズタだった。
学校へ行けないのは辛かった。
祖父、祖母も学校へ行け、父も母も学校へ行け、学校には恐ろしい先生がいる。
逃げ場はどこにもなかった。
僕の心には『僕は人に迷惑をかける存在だ。家族の恥だ』という思いが焼き付いた。
当時9~10歳の子供が思うには、あまりにも可哀想ではないだろうか……。
結論から言うと、あの手この手で『おこづかいをやるから学校へ行け』とも言われたけれど(それもすごく傷ついた。理解されていない気がした)学校へは行けなかった。
ここから第二の地獄が始まる。
家にいるしかない。
しかし、家には自分の心の置きどころはない。
当時は、両親、祖父母共に、不登校児の扱いなどまったくわかっていなかった。
僕は、母からは家事を手伝うように言われた。
両親は共働きだった。
もうボロボロのメンタルで、今だったらこの時点で心療内科への受診を勧めたかもしれない。もし、自分がそこにいて、第三者だったら。
当時は『自分は役立たずだから、家族の言うことを聞く奴隷になるしかない』と思っていた。
自己肯定感はゼロ。
どこにも居場所がないので、リュックを背負って図書館に通って、五冊の上限まで借りて、本ばかり読んでいた。
その頃は図書館に住みたかった。
図書館司書さんが、あまりに僕が通ってくるので、子供向けの棚だけではなくYA(ヤングアダルト)の棚まで案内してくれた。
外でも、学校に行っている時間にうろうろしていると不審がられるので、図書館や古本屋などが主な行き場所で、僕は本の中で生きていた。
小学校五年生、どうしても少しは学校に通わなくてはと、保健室登校や図書室登校をするようになる。
小五の時も、小六の時も、いい先生だったけれど、もう僕は教室に行く自信をすっかりなくしていた。
図書室の古いソファのところで、埃が光にキラキラしてるのを見て、きれいだな、と思っている時はつかのまの幸せがあった。
ところが、休み時間になった時、クラスメイトに囲まれ「俺のこと覚えてる?」と冗談半分で男子に聞かれた時、その時僕は「覚えてるよー!」とでも答えればよかったのにふと、期待に応えなければならないと思って突然自信を失ってしまい「……○○くんだよね?」とおどおどと答えた。
おかしな空気になった。
その場で、いたたまれない気持ちになった。
結局僕は、教室には行かなかった。
けれど「我が家の子供として、つとめを果たさなくてはならない」と思い、修学旅行に行き、卒業式に出た。
卒業式の練習をしていた時だった。
壇上に上がって、『どんな人になりたいか』ということを言ってから証書を受け取る……というような演出がつけられていた。
その時『希望を持った人になりたい』というようなことを言った瞬間、体から自分が飛び出た気がした。
これは、『乖離(かいり)』というらしい。
大きなストレスがかかったことで起こったのだろう、と後々になってからわかるのだが、この時以降、長い間僕は『自分の体と心がふわふわ離れている』ような感覚で過ごすことになる。
この辺りで、本当はレッドゾーンである。
即病院に行き、治療する必要があったと思う。
けれど、当時はまだ『心療内科に行くのは頭のおかしい人』という雰囲気があった。
そのまま、僕は『中学校からやり直そう』と淡い期待を抱いて、進学するのだ。
結論から言おう、僕は中学一年生の時は、通い切った。
しかし、それからまた不登校になるのである。
続く
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