孤独と共に生きる

孤独だな、と思う瞬間がある。

例えばとても楽しい時間を友人と過ごした後に帰ってTVをぼんやりと見ている時。一つの集団の中で、自分だけ会話に入れない時。冬の帰りの電車道。

そういう時、押し潰されそうな寂しさに耐えきれず誰かに電話をしたり、SNSに顔を出してみたり、コミュニティをもつゲームをしたり。どうにか誰かで紛らわそうとしている自分に気づいた。気づいてから、なんとかこの孤独を受け止められるようになれないかと模索している。

そう思うようになった理由はいくつかある。

まず一つ目。自分の孤独を身近な誰かで紛らわすことが癖になってしまうと、時にその人を傷つけ人間関係を歪ませてしまうから。例えば寂しくて虚しくて、誰かに甘える時。甘えられた側が『寂しさを紛らわせるために利用されている』と受け取ってしまうと、空虚な感情に陥る。少なくとも私はそう感じたことがある。友人や恋人、家族のような関係性の人でもそういう利用のし合いは存在する。それが人間だと思っている。否定したいわけではない。しかし、それが一方的だと人間関係に歪みが発生する。例えばどちらか片方だけが承認欲求をぶつけていれば、対等な関係ではなくなってしまう。対等でない人間関係に傷が入りやすいのは、昨今の人種、ジェンダーなどありとあらゆる時事問題を見れば明白である。自分の周りでも、対等で互いを尊重できる人間関係が息長く続いている。たまになら良い。誰にだって紛らわせなければやっていけない瞬間はあるし、寄り掛かり合うことで深まる人間関係もある。が、それしか孤独を紛らわす方法がないと自分も相手もしんどい。他の方法も模索したいところだ。自分でもなんとかできるようになっていたい。

二つ目。『どうにか紛らわす』を続けていても、根本的な解決にはならないから。紛らわす方法はいくつか広げられても、それは対処療法でしかない。自分の孤独がどこからきていて、どんな時に孤独を感じて、なぜ紛らわそうとしてしまうのか。自分の根っこの部分に向き合ってみようと思ったのである。敬愛する宇多田ヒカルさんは、コロナ禍でのインスタライブでファンからの「なぜ人は誰かと別れる時に痛みを感じるのか」という質問にこう答えていた。「もともと痛みがあって、その人の存在が痛み止めになっていたから」この痛みの中に孤独も含まれているのではないだろうか。自分の抱える痛みがなんなのかを知りたい。私は自分の孤独を理解して、寄り添って時にだきしめて生きていきたい。孤独を誰かに任せていてはもったいないとさえ思っている。理由としてはこちらの方が大きいかもしれない。

ちなみに、孤独と寄り添う時、孤独に浸りたい時、宇多田ヒカルさんの歌はよく効く。


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