ギリシア語で『ソクラテスの弁明』を読む (第八章)

この記事ではプラトン『ソクラテスの弁明』を古典ギリシア語で読むための手助けとして、初歩的な復習も含めて一文ごと、一語一句すべての単語に細かく文法の説明をしていきます (不変化詞の繰りかえしは除いて)。今回は第八章 (ステファヌス版の 22c–22e) を扱います。

使用した本文や参考文献については第一章の記事の冒頭に掲げてあるのでそちらをご覧ください。

第八章 (22c–22e)

Τελευτῶν οὖν ἐπὶ τοὺς χειροτέχνας ᾖα· ἐμαυτῷ γὰρ | συνῄδη οὐδὲν ἐπισταμένῳ ὡς ἔπος εἰπεῖν, τούτους δέ γ᾽ ᾔδη ὅτι εὑρήσοιμι πολλὰ καὶ καλὰ ἐπισταμένους. καὶ τούτου μὲν οὐκ ἐψεύσθην, ἀλλ᾽ ἠπίσταντο ἃ ἐγὼ οὐκ ἠπιστάμην καί μου ταύτῃ σοφώτεροι ἦσαν. ἀλλ᾽, ὦ ἄνδρες Ἀθηναῖοι, ταὐτόν μοι ἔδοξαν ἔχειν ἁμάρτημα ὅπερ καὶ οἱ ποιηταὶ καὶ οἱ ἀγαθοὶ δημιουργοί—διὰ τὸ τὴν τέχνην καλῶς ἐξεργάζεσθαι ἕκαστος ἠξίου καὶ τἆλλα τὰ μέγιστα σοφώτατος εἶναι—καὶ αὐτῶν αὕτη ἡ πλημμέλεια ἐκείνην τὴν σοφίαν | ἀποκρύπτειν· ὥστε με ἐμαυτὸν ἀνερωτᾶν ὑπὲρ τοῦ χρησμοῦ πότερα δεξαίμην ἂν οὕτως ὥσπερ ἔχω ἔχειν, μήτε τι σοφὸς ὢν τὴν ἐκείνων σοφίαν μήτε ἀμαθὴς τὴν ἀμαθίαν, ἢ ἀμφότερα ἃ ἐκεῖνοι ἔχουσιν ἔχειν. ἀπεκρινάμην οὖν ἐμαυτῷ καὶ τῷ χρησμῷ ὅτι μοι λυσιτελοῖ ὥσπερ ἔχω ἔχειν.

(1) Τελευτῶν οὖν ἐπὶ τοὺς χειροτέχνας ᾖα· ἐμαυτῷ γὰρ συνῄδη οὐδὲν ἐπισταμένῳ ὡς ἔπος εἰπεῖν, τούτους δέ γ᾽ ᾔδη ὅτι εὑρήσοιμι πολλὰ καὶ καλὰ ἐπισταμένους.

(直訳) そして終わりに私は職人たちのところへ行った。というのも私は私自身がいわばなにひとつ知っていないことを承知していたが、彼らこそは多くのたいしたことを知っているということを見いだすであろうとわかっていたからだ。

τελευτῶν: 現能分・男単主 < τελευτάω「終わらせる、完遂する」。
ἐπὶ τοὺς χειροτέχνας: 男複対 < χειροτέχνης「職人、手工芸者」。
ᾖα: 未完能直 1 単 < εἶμι。
ἐμαυτῷ: 1 単与。再帰代名詞。
συνῄδη: 過完能直 1 単 < σύν-οιδα「よく知っている」。οἶδα の複合動詞で、完了時制が現在の意味であるのと同じ理由で過去完了時制はただの過去の意味。
οὐδὲν: 中単対。
ἐπισταμένῳ: 現中分・男単与 < ἐπ-ίσταμαι「知る、理解する」。(σύν)οιδα の間接話法に分詞が要求されている。意味上の主語 ἐμαυτῷ に一致した与格。
ὡς ἔπος εἰπεῖν:「いわば、言ってみれば」。これは οὐδέν を限定している。
τούτους: 男複対。εὑρήσοιμι の目的語で、強調のため文頭に出ている。
ᾔδη: 過完能直 1 単 < οἶδα。
εὑρήσοιμι: 未能希 1 単 < εὑρίσκω「見つける、見いだす」。
πολλὰ καὶ καλὰ: 二詞一意。前章 (8.2) を参照。
ἐπισταμένους: 現中分・男複対 < ἐπ-ίσταμαι。τούτους に一致した分詞。

(2) καὶ τούτου μὲν οὐκ ἐψεύσθην, ἀλλ᾽ ἠπίσταντο ἃ ἐγὼ οὐκ ἠπιστάμην καί μου ταύτῃ σοφώτεροι ἦσαν.

(直訳) そしてなるほどそのことからは裏切られはせず、彼らは私の知らないことを知っていて、そのことによって私よりも知恵があった。

τούτου: 中単属。前文の内容というか、前文において表明されたソクラテスの期待を指すか。起源の属格:「そのことからは」。
ἐψεύσθην: アオ受直 1 単 < ψεύδομαι「嘘をつく」。
ἠπίσταντο: 未完中直 3 複 < ἐπ-ίσταμαι。これは前つづり ἐπι- のついた複合動詞であるが、そうとは意識されなくなったために加音が前についてしまっている (チエシュコ 7§66)。
: 中複対。先行詞省略。
ἐγὼ: 1 単主。
οὐκ: 関係節におけるこの οὐ(κ) に注目。すなわち μή ではないわけである。一般的な話ではなく、なにか具体的に事実ソクラテスの知らない一定のこと——それは当然職人たちの技芸のことだが——を指している。
ἠπιστάμην: 未完中直 1 単 < ἐπ-ίσταμαι。
μου: 1 単属。比較の属格。
ταύτῃ: 女単与。仕方の与格。
σοφώτεροι: 比較級・男複主。
ἦσαν: 未完能直 3 複 < εἰμί。

(3.1) ἀλλ᾽, ὦ ἄνδρες Ἀθηναῖοι, ταὐτόν μοι ἔδοξαν ἔχειν ἁμάρτημα ὅπερ καὶ οἱ ποιηταὶ καὶ οἱ ἀγαθοὶ δημιουργοί—

(直訳) しかるにアテナイ人諸君、この優れたる職人たちもまた私には、詩人たちも (もっていた) あの同じ過ちをもっていると思われたのだ。

ὦ ἄνδρες Ἀθηναῖοι: 男複呼。
ταὐτόν … ἁμάρτημα: 中単対。ταὐτόν は τὸ と αὐτό「同じ」の融音であり、ταὐτό になるはずであるが、ν のついた形もよく用いられる (Smyth, §§327–28)。ἀμάρτημα「過ち、誤り」。ἔχειν の目的語。
μοι: 1 単与。
ἔδοξαν: アオ能直 3 複 < δοκέω。
ἔχειν: 現能不。
ὅπερ: 中単対。関係代名詞+強めの接辞 -περ。
καὶ οἱ ποιηταὶ: 男複主。関係節内の主語。動詞は省略されているが、補うとすれば直説法未完了 εἶχον (主文が副時制だが、未完了には直説法しかないためふつうそのままに保たれる:水谷 §127.3)。
καὶ οἱ ἀγαθοὶ δημιουργοί: 男複主 < δημιουργός「職人」。ぱっと見にはこの καί … καί … は「A も B も」の意味の同レベルの並列にとりたくなるが (実際 Steadman は単純にそう考えているが)、田中註解や dS&S が正しく言うとおりこの 2 番めのものは主節に属している。したがって文法上こちらは ἔδοξαν と ἔχειν の主語である。

(3.2) διὰ τὸ τὴν τέχνην καλῶς ἐξεργάζεσθαι ἕκαστος ἠξίου καὶ τἆλλα τὰ μέγιστα σοφώτατος εἶναι—καὶ αὐτῶν αὕτη ἡ πλημμέλεια ἐκείνην τὴν σοφίαν ἀποκρύπτειν·

(直訳) その技能をみごとに発揮する (ことができる) ことによって、(彼らの) 各人はほかのもっとも重大なことごとにおいても (自分は) 知恵があるとすることを是としていた。そして彼らのこの思い違いが、彼らの知恵を覆い隠している (と私には思われた)。

διὰ τὸ … ἐξεργάζεσθαι: 中単対+現中不 < ἐξ-εργάζομαι「完遂する、成し遂げる」。不定詞が冠詞つきで中性名詞扱いとなり前置詞 διά の目的語になっている。
τὴν τέχνην: 女単対 < τέχνη「技術」。
καλῶς: 副「よく、立派に」。
ἕκαστος: 男単主「それぞれの」。
ἠξίου: 未完能直 3 単 < ἀξιόω「正しい・ふさわしいとみなす」。
τἆλλα τὰ μέγιστα: 中複対。μέγιστα は μέγα の最上級。限定の対格。
σοφώτατος: 最上級・男単主。
εἶναι: 現能不。
αὐτῶν: 男複属。所有の属格。
αὕτη ἡ πλημμέλεια: 女単主「調子外れ;履き違え、勘違い」。
ἐκείνην τὴν σοφίαν: 女単対。ἐκεῖνος はいわゆる「3 人称の指示代名詞」であって、ここではほとんど「彼らの」と訳しうる (それゆえ次の文では τὴν ἐκείνων σοφίαν と言われる)。
ἀποκρύπτειν: 現能不 < ἀπο-κρύπτω「覆い隠す」。この不定法は少々困難。バーネット版の異読資料欄にあたってみると、彼が本文に採用したこの不定法現在は W 写本を根拠とするに対して、B 写本では直説法現在 ἀποκρύπτει、また T 写本と Arm. (古アルメニア語訳) では直説法未完了 ἀπέκρυπτεν が支持されるようだ。後 2 者なら話は簡単で、職人たちの思い違いが彼らの知恵を「覆い隠している/いた」と素直に訳せる。田中註解はこの最後の ἀπέκρυπτεν がよいとしている (久保訳も同じ解釈か)。それでは不定法はどう訳すつもりでバーネットは採用したのかというと、彼のテクストではこの文は (3.1) からダッシュを挟んでずっと続いているのであって、そちらと同様に  ἔδοξέ μοι を補って、これに不定法が従っていると解するわけである (山本訳・三嶋訳・納富訳がこの訳しかた)。この選択は本文批評の原則のひとつ lectio difficilior (ラテン語で「より難しい読み」の意) の例といえよう。写本というのは人の手で何度も写されるあいだに誤りや改変が加えられるので、写本によって書いてあることが違う場合どれが本来のものか推測せねばならない。いまの文の場合、もともと不定法だったのが読みやすい直説法に書きかえられるのはいかにも起こりそうであるのに対して、その逆に直説法だったのがわざわざ不定法に直されるというのはめったにありえないであろうから、本来は不定法だった蓋然性が高い、という判断をするわけである。ただし参考のため dS&S による反論を挙げておくと、文体面から見てバーネットのように διὰ τὸ τὴν τέχνην 以下をダッシュで挟む挿入句とするのはぎごちないのであって、やはりここはべつの文と見て ἀπέκρυπτεν を採用すべきだという。

(3.3) ὥστε με ἐμαυτὸν ἀνερωτᾶν ὑπὲρ τοῦ χρησμοῦ πότερα δεξαίμην ἂν οὕτως ὥσπερ ἔχω ἔχειν, μήτε τι σοφὸς ὢν τὴν ἐκείνων σοφίαν μήτε ἀμαθὴς τὴν ἀμαθίαν, ἢ ἀμφότερα ἃ ἐκεῖνοι ἔχουσιν ἔχειν.

(直訳) それゆえ私は私自身に、神託に成りかわって (次の 2 つのうち) どちらを受けいれたものかと問うほどであった。(すなわち) 私はいくぶんとも彼らの知恵において知恵あるのでもなく、それでいて彼らの無知において無知なのでもない、というふうに (現に) あるとおりにそうあること (を受けいれる) か、もしくは彼らがもっている両方をもつこと (を受けいれる) か。

ὥστε:〈ὥστε+直説法〉では実際に生じた結果を表すのに対して、想定されただけの結果は〈ὥστε+不定法〉による (高津 §307; チエシュコ 8§43.2)、とふつう説明されているのであるが、ここではあまりあてはまらないように思われる。続く第九章 (1.1) でも ὥστε … γεγονέναι, … λέγεσθαι という不定法の形で「多くの中傷が生じ、知者と呼ばれるほど」と言われるのであるが、ここまで読んできた人には明らかなとおりどちらも実際に生じた (少なくともソクラテスはそう主張してきている) 事態である。
με: 1 単対。不定詞 ἀνερωτᾶν の対格主語。
ἐμαυτὸν: 1 単対。再帰代名詞。ἀνερωτᾶν の目的語。
ἀνερωτᾶν: 現能不 < ἀν-ερωτάω「重ねて訊ねる」。
ὑπὲρ τοῦ χρησμοῦ: 男単属 < χρησμός「神託」。ὑπέρ はここでは「〜にかわって、〜を代理・代表して」の意。
πότερα: 中複対 < πότερος「2 つのうちのどちら」。比べられる内容はこのあとの ἤ を挟んでいる 2 者。ἔχειν の目的語。
δεξαίμην ἂν: アオ中希 1 単 < δέχομαι「受けとる、受けいれる」。可能性の希求法。
ἔχω: 現能直 1 単。
ἔχειν: 現能不。抽象的で理解しづらいかもしれないが、οὕτως と ὥσ(περ) もまた副詞であって、これら ἔχω, ἔχειν は例の〈be 動詞+形容詞〉に置きかえて「(そういう状態) である」と訳せるわけである。上ではそのあたりを直訳したので非常にわかりづらくなってしまったが、三嶋訳「私が現にあるがままの状態」、田中訳「これはこのままのほうがいいのか」のように、「まま」という日本語はここにぴったりである。
τι: 中単対=副「いくらか」。否定文なので「いくらも・まったく〜ない」。
σοφὸς: 男単主。
ὢν: 現能分・男単主 < εἰμί。
τὴν ἐκείνων σοφίαν: 男複属+女単対。前文では ἐκείνην τὴν σοφίαν という遠称の指示詞であったが (だから外側にある必要があったが)、今度は「彼ら」という人々を指している複数代名詞で、所有の属格。この全体は限定の対格で、「σοφία において σοφός である」という同族目的語に似た表現になっている。
ἀμαθὴς: 男単主「無知な、愚かな」。繰りかえしを省略されている ὤν の述語。
τὴν ἀμαθίαν: 女単対 < ἀμαθία「無知、愚かさ」。同前、限定の対格:「ἀμαθία において ἀμαθής である」。
ἀμφότερα: 中複対。ἔχειν の目的語。
: 中複対。ἔχουσιν の目的語。
ἐκεῖνοι: 男複主。
ἔχουσιν: 現能直 3 複。
ἔχειν: 現能不。ここの構造は前半の πότερα … ὥσπερ ἔχω ἔχειν とパラレルになっている。

(4) ἀπεκρινάμην οὖν ἐμαυτῷ καὶ τῷ χρησμῷ ὅτι μοι λυσιτελοῖ ὥσπερ ἔχω ἔχειν.

(直訳) そこで私は自分と神託とに、私がちょうどそうあるとおりにあることが私にとって益する、と答えたのだ。

ἀπεκρινάμην: アオ中直 1 単 < ἀπο-κρίνω「答える」。
ἐμαυτῷ καὶ τῷ χρησμῷ: 1 単与+男単与。前文では「神託にかわって」と言っていたが、そもそも代わることができたのは神託じたいが問うてきているからなので、結局こうして神託と自分自身とに答えることになるわけである。
μοι: 1 単与。
λυσιτελοῖ: 現能希 3 単 (非人称) < λυσιτελέω「(与格の人の) ためになる」。副時制の主文に従う間接話法なので希求法。
ὥσπερ ἔχω ἔχειν: (3.3) 前半と同様。


〔以上で第八章は終わりです。〕

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