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羽のない鳥

学校の七不思議を信じるような子供ではなかった。今もそうだ。

けれどもあの場所を説明するとき、いかにも奇妙な場所が、日常的に目に触れてはいるが入ってみようとは思わないところにあるのだ、と言うことができるだろう。

あれは普段と変わらない、何の変哲もない日だった。出席を取らない講義を切って、公園で昼寝をしたり哲学書を読んだりするのも、いつものことだ。それ以上でも以下でもない。

授業中の閑散とした構内を移動する。
若葉は夏色だった。半袖の外国人留学生がいても不自然ではない暖かさだ。

ふっと階段が見える。常日頃そこに階段はあるのだから、突然現れたわけではないのだけど、今初めて私の世界に出現したのだった。私が普段利用しない教育学部の棟だ、そこの端に位置している。

階段の前に立ち、私の頭は白紙になった。立入禁止の表示はされていない。

駆け出した。階段を一段飛ばしで駆け上がった。カバンに入った哲学書が、私自身の身体と一体化したかのように、重力を消した。中身はバタイユの『内的体験』だった。それだけでかなり重いはずの。

階段を登れば教室に繋がるのかとも思った。しかしその階段は非常用にすらなり得ない、どこにも繋がらないただの石の階段だった。
何階まで上がれど出口はないままだ。太陽に近づいているにも関わらず、闇は増すようだった。大学にこれほど無意味な場所が放置されているのは、何かの慰めになり得るからだろうか。

遂に頂上に着いた。階段の終わり。私は生物ではないみたいに、ちっとも息が乱れていなかった。

石の上によじ登って、下を見た。コンクリートの地面が無情にあった。数えていないが、きっと7階くらいの高さだ。私を止めるものは何もない。

怖くなった。私は風に押されればいつでも落ちる状況にいた。怖い。


死にたくない。死にたくない。死にたくない。


石からひょいと降りて、冷たい石壁に背をつけて体育座りをした。自分の顔が熱っぽく濡れるのがわかった。

死ぬのは怖い。

飛び降りれば一瞬だろう。その一瞬が人生で最高潮の恐怖を植え付けるに違いないのだ。
飛び降り自殺をした無数の人たち。もはや誰も語り得ない。

人間はその最終的孤独に到達したとき……もはや人間の表象するものと同等の一個の全体と闘うのではなくて、虚無(ネアン)と闘うのだ。
『内的体験』

ティッシュをぐしゃぐしゃにした。数秒前まで私の体液だったもので温まったそのゴミは、私よりもよっぽど生きているらしかった。
それをじっと見つめていると、ある考えが浮かんだ。

私は躊躇わなかった。勢いよく立ち上がって、そのまま一メートルちょっとある石壁に再び腰掛けた。
握り潰された花弁のように血の気のなくなったティッシュを、石壁から落とした。自分の身代わりだった。

ティッシュは風に攫われて、数メートル横へズレた。そして木の上に着地した。
私は落ちた位置を確認すると、カバンを奪うように手に引っ掛けて、7階分ほどある階段を一気に降りた。

いつものキャンパスだった。薄暗い石の階段は嘘みたいな現実だった。

深緑の木の枝にティッシュが引っかかっていた。人間に管理された木々は丸みを帯びてカットされていたので、ティッシュを無為に貫くことをしなかった。私に他殺されかけながらも無傷のそれを、愛おしいものとして手に掴み取った。

死にたくない。

私の口は確かにそう言った。

同時に、私にはまだ会いたい人がいた。伝えたいことがあった。絶対に理解されない、共有されない、そうと知っていても伝えたくて堪らないことがあった。全部壊れても構わない。道中は辛いだろう。

けれども、傷一つない死体になるために生まれてきたのではない。私はどこまでも自由だ。そうとわかった。それで充分闘える。

#小説 #死 #生

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