再会(パッションゆえだとしたら)

運命と言わず、他に何と言えば伝わるのかわからない。けれども、それはどうでもいい。言葉に意味はない。

もう二度と会えないかもしれない別れ方をした相手と、数ヶ月ぶりに再会したという、そして私は意識的な無表情のまま、今ここから宇宙空間へ投げ出されたような爆発的衝撃を、心に受けたというだけの話だ。

私の涙は枯れていたし、彼女も無関心だった。交わす言葉はなかった。つまり現象として何も起こり得なかった、つまらない授業の一コマに過ぎない。

こうしたことに運命を感じて感情を荒げていたら、心臓がいくつあっても足りない。

過剰反応を妨げることに失敗したのは、もはや被る授業が一つもなく、彼女の姿を見ることはないだろう、と半ば諦めていたからだ。それなのに密かに最後の望みであったその授業で、相手もそれを履修していたのだ。

私は本来その授業を取る予定はなかったが第一希望が落とされたため、いわば成り行きで、二次登録を済ませただけだった。その不運が、これまた幸か不幸かわからないけれど、彼女と私を引き合わせることになってしまった。


教室に入ると、一目でわかった。彼女は美しい人だ。何よりも、意思のある瞳をしている。

私は彼女と目が合うのを恐れてそちらを見つめることができなかった。彼女を透明人間だと思った。辛すぎる努力だったが、彼女と完全に会えなくなることに比べれば、ましな巡り合わせだったのかもしれない。

私は彼女に謝らなければならないと思い続けていた。
今すぐに接触を試みることは最後の別れ方からして不可能だろう、それでもいつかまた、以前ほどの距離感でなくとも話せるようになりたかった。
穏やかでない別れ方をして、それ以後連絡を取れなくなっていた相手だった。

その講義のテーマは「パッション」だった。
情念、感情、感覚、情熱、受難、などの限りなく漠然としたものを意味する言葉だそうだ。

それはもはや言葉らしからぬ言葉だという印象を私に起こさせた。余り物全員集合、といった残余概念だった。

哲学を専門とする教授の話は大抵ツマラナイものだが、今度の本校新任教授も例外ではなかった。話はタメにならないが、扱う内容は興味深いと思った。

私は時折、電車のひと車両の先端から端までもある遠距離から、バレないように極めて素っ気なく、彼女の後ろ姿を見るだけだった。知らぬ間に一段と綺麗になったように映るのがまた、私に切なさを植え付けた。

講義が終わると、質問の時間が与えられた。

凛とした声で、教授に質問をしたのは彼女だった。綺麗な横顔が見えた。この大教室の誰よりも美しい眼差しだと思った。

「初歩的な質問で恐縮ですが、パッションとはロゴス以外のものと捉えてよろしいのですか

教授は大体そんなものだね、という風に答えた。彼女は重ねて質問をぶつけていたけれど、もう私の考えは別のところへ飛んでいた。

あのときの違和感。彼女と共に過ごしたあの時間、空間。彼女と同じ重力に則って日本語を発していたのに、ズレが生じていたあの変な感じ。そうか、これ以上言いようがないほど私はこの講義で腑に落ちた。

彼女はロゴスの人間で、私はパッションの人間だったのだ。

彼女は理性や、地に足のついた言葉を味方にしていた。私にはそれがわからなかった。彼女へ感じていた「好き」というのも、理由説明可能なものではなかった。私は激情に支配されていたに過ぎなかった。

理性的に、論理的に、人間が社会の中で求められる秩序に従って、彼女は言葉を発することができたのだ。少なくとも、その努力をしていた。

それなのに私ときたら、意味のないその場限りの心地よさを重視して、思考回路を放棄した言葉を並べていただけだった。私は人間ではない。単に動物だった。

理路整然とした「好き」が形作れなくて、自分でも訳がわからないけれどどうしようもなく好き、という自分中心の「好き」を持て余して、それを不器用に相手にぶつけようとしていただけなのだ。
動物が飢えに耐えかねて餌に食らいつくのと変わらない、汚く、自己中心的で、そうして惨めなほど、正直な欲求だった。嘘はなかった。節度もなかった。他にどうしようもなかった。目の前に彼女がいたら、もうそれが全てだった。私は馬鹿だ。

授業が終わると、学生の群れが次々と扉を出て行った。私は数十秒もぬけの殻となって、ただ座り尽くしていた。

それから、自分も教授に質問しに行こうと思い立ち、筆記用具をカバンに雑に放り込んだ。

出席カードを出すとき、わずか数メートル先に彼女がいた。
私はあえて彼女とタイミングを合わせたわけではなかったのでこの偶然に面食らったが、決して彼女の方は見ず、狼狽もしなかった。

彼女の方も私の存在を紛れもなく認めたのが、私にはよくわかった。

以前私は彼女にこんなことを言った。彼女はあの断片的な望みを、頭の片隅で思い出してくれないだろうか。
「自分はね、感情にもなれないような、言葉を超えた存在について考えてるの」
それは貴女です、とは言えるはずがないけれど。 ただパッションとか魂と呼んでおく。

ほとんどの学生が去ると、前の質問者が教授から離れるのを待って、私も疑問を投げかけた。もちろんそのときには、彼女も去っていた。

私は授業時間内にすぐ質問できるほど頭が整理できていなかったし、もし彼女の直後に挙手をしたらまるで彼女を意識して、多少の敵対心があるように彼女に受け取られそうで、何もできなかったのだ。

「パッションを言葉で表せるのですか」

「いや、言葉に出来ないものを指すのですよ」

教授はホワイトボードを消しながら、忙しなく答えた。今更当たり前のことを聞くな、と言いたそうな怠い響きだった。

「じゃあパッションをこうして講義にできるほど言葉に落とし込むのってどうなんですかね」

パッションを言葉にすることはできないけれど、パッションのための言葉がある。詩や文学だよ

充分だった。私は小さな革命を心の中に感じたので、それ以上教授の仕事を伸ばす必要はないとわかり、ありがとうございますとだけ言って、教室を去った。

パッションのための言葉。
それが詩や文学だ。

詩や文学。

私にできることは、それだった。理性も社会的地位も、あるいは理性的動物として生き抜く彼女のような人間との共通の理解も、得られないだろう。私はいずれロゴスに属するもの全てを捨てていかねばならないだろう。それらに適応できなければ、パッションを貫き通すしか方法はない。そして決断のときは迫っている。

詩や文学。

彼女に出会えたことと、道しるべを得られたこと。私の魂は行き着く場所を知っていると、信じてみることにした。

#小説 #魂 #大学

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