日本では最高のオナニーができない
就活真っ只中の友人の話を聞いた。数日前の私だったら、「就活」という思考停止ワードを出された途端にその人物を抹消したい念が湧き上がったに違いないが、それはどうにか落ち着いていた。
こんなことも考えなければならない学年なんだなと腑抜けた頭で悲しくなった。
頭に浮かぶこと。
大切な人。彼女に出会う前の、いろいろな雑事。
文学、哲学、性、絵、語学、旅。ずらっと並べて、それらは実学からかけ離れた生産性のない、生活に結びつく望みがうすく、たとえそれらが職に繋がったとしてもそれゆえにいき詰まって自滅しそうな、愛すべきもの。
書くこと描くことは、私にとって公開オナニーである。それでも。
「最高のオナニーは他者をセックスさせる」
それだけをがむしゃらに信じている。自分の信じるものを貫いて、向かっていけば、いつか他者までも感じさせてやることができるんじゃないかって。突き動かすことができやしないか。
だから媚を売る文章は書きたくないし、気持ちがない相手に向けて絵を描くことも全くできない。これじゃあいつまで経っても商業社会で生きていけないなあ馬鹿。
世に蔓延る文章を眺めて思うことは、ああ読みやすいなあって。それで、それだけだったり。するりと抜けていって、それはまるでスクランブル交差点ですれ違う他人のようで、ロマンスのかけらを拾い集める瞬間もない。呆気なく終わってどうでもいい事象Aになる。ふーん。ときにはその寂しさが好きになるときもあるけれど、大量消費の感が拭えない今の社会は生きづらい。嫌だと思う。
現代の日本は、と言い換えてもいいだろう。私は現代の日本が大嫌いです。大量生産、大衆迎合、消耗品、画一化、便利、ああマヌケだな。考える頭と感じる精神を捨ててきちゃったみたい。
「普通」という言葉を何の考えもなしに乱用する人が嫌いだ。会話をしたいと思わない。ときには私も、化けの皮を被ってみたくて、普通に普通という言葉を使ってみる。内心、びくびくしている。
そりゃあもちろん、他者を傷つけず自分も傷つけないでいたい。だから無茶苦茶に自説を投げ捨てていく人物にはなりたくない。その点で多くの人が持つ感覚=普通 を意識しなければならないのはわかる。そうした気遣いを持てることは必要だ。
ちがうちがう、私が居心地悪く感じるのは、生命を無駄遣いする人が多すぎるように見えるからだ。自分の居場所をわかっていなさすぎる。考えもしない。流されていくだけ。水のような万能さもないのにアホらしい。疑うのは悪いことだから、先生のいうことを聞きなさい、って教育されてきたのですか。
大事なことへの問題提起はしないまま素通りしていくくせに、なぜ愚痴だけは一人前のフリができるのだろう。不倫=悪いこと、殺人=クソ、だけで終わるならむしろ幸せな世の中なんだろう。
愛するものについて語りたい気で書き始めたらずいぶん脱線した。世の中がこんなだからこそ、二人でいるときくらい寛いでほしい。
就活中の友人は、私と正反対の人だ。指導者や教育者の立場から、今の世界を変えていこうという意欲を持ち、本当にその通り行動できる人だ。
一方私は、こんな国捨ててしまえと日本に対して思うのです。腐っているのなら、一度根元から破滅して創造し直すのがいいのかなあ。先人の努力だけではもう保たない。遅れている。井の中の蛙。げこげこ汚らしいよ。だから国外逃亡するだろう。
一個体に向き合う生き方をしたいと心がけているはずの私が「日本」という括りで語るのは本末転倒なのは承知で、それでも日本にいるとき息苦しくて堪らない。ドイツにいるとそこにいるだけで自然な状態でいられる自覚があるのに。日本では自分が殺されるのだ。私には向かない。
結局何の話だっけ。みたいな呟きが、できる場所が必要ってことです。
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