魂とは

「魂」というとプラトン読めば?と言われがちだけど、自分に浮かんでくる「魂」はプラトンのそれとは違うと思う。

スイッチを入れると直に豆電球がつく、導線を必要としないほど惹きつけられる力みたいなものだと思っていて。(理科は苦手なド文系なので細かいことは知らんです)

現象があって判断して感情に訴えるとか、考える、という回路がない。ぶった切られたり弱かったりするのではなくて、そもそも「ない」のだと思う、説明可能な経路や理由が。

プラトン的な、魂がめぐっている、という「魂の不死」なる時間軸は想定していないなあ。
前世があるわけじゃなくて、「今」で反応してるだけっぽい。

いやそれとも、過去や未来まで感じられるのなら自分はそれを信じただろうか。
現在の自分には時間を超えて感じる力がないだけかもしれない。写真を見て「絶対自分は好きだろうな」という強い予感みたいなものはあるけれど(それは単なる好みかも)、ビビッと反応してもはやそうなるしかないと感じられるのは「今」のことだけだと思うし。

それにそう感じている最中は、今が魂に突き動かされているときだ!という自覚はなかなか持てない。夢の中でコレは夢だ、といつも自覚できるわけではないのと似ている。

プラトンよりはヘッセが小説で書いている「魂」の方が自分に近いなあ。

母おやは年来、毎日のように、子どもは自分の魂を受けている、その魂の中には、父に精神と本性とに矛盾する何かが、無意識に、理解されない苦痛をもって矛盾する何かが生きていることを自覚した。
確かに子どもは、父から多くのものを受けていた。ほとんどあらゆる点で父に似ていた。
しかし、最も深い神経、人間の真の本質を形づくり、神秘的に運命を創造するもの、その生命の火花を、子どもは母おやから受けていた。
彼の心の一番内部の鏡の中を、最も個性的なものと独特なものの静かに波打つ微妙な源をのぞくことのできるものがあったら、そこに母の魂が映っているのを見出したことであろう。

ヘッセ『ヴァルター・ケンプフ』

外界への反応として、理性や感情よりもっと強く確実に働いている気がする。神秘的に運命を創造するもの、といったら胡散臭い印象かもしれないけれど、言葉で言い難い目に見えないものを言葉に落とし込むのだから仕方ない。

もちろん魂が常に自己決定しているのではなくて、こう考えたから、嬉しいから、という理由をもって進むこともある。日常はそれの連続でありがちだ。

ただそうしたとき魂は息を潜めているだけで、必要となれば抗いがたい引力で物事を突き動かす事実が、理由なんてなく唐突に、でもとても必然なこととして、あるのだ。他のものは、例えば感覚すらも消えている。自分ではないみたいだ。

そういう人や場所や出来事がある。

キチガイみたいにドイツが好きなのも、理由はない。両腕に腕時計を二つ(日本とドイツ)しているのも、そうすることで自分が保たれているような、自然なかたちであるからだ。

〝あの人〟に出逢った偶然も居心地の良さも自分を保てなくなるほど惹きつけられるのも、そこに理由はなく、魂が呼ばれたから、とでもいう他ない。

「魂」と表象しても人それぞれ違った受け取り方、語り方をする。

それは本来「魂」が言語で共有され得る領域にないから当たり前だ。だから「魂」を辿っていったところでそこに自分の求めるものが見出せるか感じられるかはわからない。ただ進んでみるしかない。

#エッセイ #哲学 #魂 #ひとり言

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