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忠犬が病気だとしても

なぜ書くのかと問われれば、心を支配することがそれしかないから、と答えるほかない。
なぜ書かないのかと問われれば、それを書くだけの適切な言葉を見つけるのは困難で、そもそも値する言葉が世の中に漂っているとも思えないからだ、と言うだろう。

その日の待ち合わせも、渋谷だった。
狭く曇った空から儚げな太陽光が挨拶をする。スクランブル交差点に歪んだ列を作った人々は青になると無言ですれ違い、アンドロイドとの区別がつかない。それでも皆生きている、と信じてぼんやり見つめるのが好きだ。私の血が人々の行進と呼応する気分になれる。

約束をしていた一人の友人と会うときは、場所が渋谷であることが多い。友人のバイト先が渋谷なのだ。
私は東京から神奈川に引っ越したため、わざわざ東京のど真ん中の、人口最高密度を誇るその地へ足を運ぶようになる機会は減ると思ったのだが、友人の誘いで現在の方が東京在住時よりもスクランブル交差点を身近に感じるようになった。少なくともテレビの天気予報で見かけるよりはずっと。

私はその友人の都合に合わせてどこへでも行く。満員電車も厭わず、渋谷を指定されたらそこに大歓迎で行くのだ。友人は千葉在住のため、山手線だと逆回りだ。

何から何まで真逆な私と友人は、集合時間の捉え方も対極だった。
私は約束より40分早くハチ公改札に降り立ち、マクドナルドでひとりの時間を過ごしていた。十時前では他のどの店も開店前だった。そしてまたハチ公の元へ戻り、読書をしながら友人を待った。まだ約束10分前。私と同じようにハチ公を慕う人々が群れている。

すると5分前、友人からLINEが来た。10分遅れる、と。今日は10分しか遅れずに来れるならよかった、と思った。短編がキリよく読みきれそうでちょうど良い。その10分の間に切り過ぎてしまった髪の毛が数ミクロンでも成長してくれたらいいのに、と思いながら髪の毛を撫で、帽子をかぶり直す。


友人は私との約束にはいつも遅れる。思い出せる限り、遅刻かドタキャンをされたことしかない。友人がたった一度でも定時に、あるいは私より早く来たことがあるかというと、やっぱりそんなことは色違いのポケモンが現れる確率より低い。幻だ。限りなく無駄な回想だ。

友人はバイトもサークルも複数やりくりしているので、時間も精神も切り詰めているのは誰が見てもわかる。そうした社会的仕事や幹事長の立場でぎゅうぎゅうに押し込まれている友人は、気の置けない人が相手じゃないと遅刻できない、と漏らした。
それを聞いた私の反応は以下の通りだ。遅刻を悪とは思わないし、会えるはずの日に会えない孤独は辛いけれど、友人の遅刻に怒るなんてことは一度もない。むしろ多忙な中私に会ってくれるならありがたい。

この現状を共通の友人に言ってみると、それは君が都合よく使われているだけじゃないのか、と心配と怒りを中和して滲ませた表情で言われた。
それは正論だろう。細胞の末端で、わかってはいる。けれども怒ったり離れたりしようとは思わない。いや、そうできようもない。

なぜなら、私は狂っているからだ。
遅刻する友人を馬鹿正直に信じているし、つまりは愛しているのだ。自分がおかしくてもそれに気づけないくらい、私の中心にその友人がいる。それが自然なことだ。
異常な執着こそが、私の普通になっていた。執着と言わず、信仰とでもいうのだろうか。敬虔なキリスト教徒はマリア様を踏まないだろうし、ムスリムは豚肉を食べないだろう、それと同様に私は友人を嫌いになれない。一時的に失望し離れていくことはあっても、それでもまた向き合って話せるいつの日かを信じて、疼いた心が地を這うように友人を待ち焦がれている。

この話を持ち出すときに、友人、と距離を置いて呼ぶのもむず痒く、けれど好きな人と形容しようものなら恋愛の概念が邪魔しだすだろうし、彼女の名は私の中であまりに多用し過ぎて擦り切れ、心の膜に浸透してしまった。いつも考えている、慕っている、信じている、好きだ。言葉が陳腐で何も語れない。

これはセクシュアリティでいうとデミセクシュアルなのか、いや愛着障害が疑われるのか。どうだってよくなった。関係性に名前を求めた時期は、遥か彼方だ。

ハチ公前に友人が現れるとき、狂った魂は身を潜め、ありふれた気軽なおはようで、呼吸する。
友人が海をひっくり返したように言葉を飛ばすのを、心地よく浴びる。

違いすぎる性格、所属意識、他者意識、悩み、恋愛感覚、金銭感覚、趣味、それらの情報はバラバラに散らばるだけで、何も生産性はないだろう。喪失感はブラックホールを超えてどこまで拡張するのだろう。ある日突然変異が起こる確率なんて、友人が時間通りに待ち合わせ場所にやってくる確率よりも無い。
それでも、それでも、それでも。逆説的な感情に、関係に、終わりはない。スクランブル交差点は、今日も無言で音立てる。

#小説 #私小説 #エッセイ

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