旅しているときはいつでも振られた気分なのはなぜだろう。ということは、人生すべてがずっと失恋と共にあるということだ。いつも旅の、道を知らない、星を見上げる余裕のない、間違いばかりの路上にいる。

そこでは人がすべて風景に見える。賑やかな笑い声も、衝突されたときの痛みも、欠伸が移ることも、錯覚でしかあり得ない。自分が歩くこと自体が夢との境界を失くす。いつでも行方不明であるならば、その何処にもない場所こそが確固たる居場所を創り出していると、都合よくいえるだろうか。(いや、それは違うのではないか。ないことと見ないふりをすることは全く別の次元だろう。)

旅するときは究極に淋しい。だから二度来店しただけの小さな店の店員や、ホステルで一言挨拶を交わした人といった、何一つ相手のことを知らないのにその瞳がとてもあたたかく心のアルバムに取っておきたくなる対象を前にして、自分は狂ったように甘えたくなる。それでも刹那的な爆発力は極めて危険だと知っているから、どうにか激情を内に押し留めて鼻で息をする。口を開こうものなら嗚咽が飛び出すから。

旅の最中ではいつでも限界状況に成り得るため、どれだけ警戒していようとも宇宙上に自分ただ一人しか存在しないような心地に押しやられる。孤独。
これは自分でそう選択したのではなく、その世界に放り込まれたとしか認識できない。何らかの他者を意識せざるを得ないのだが、それは路上ですれ違う人間や目の前で会話する相手ではないだろう。他者は見えない。見ないことを望んでいるのではなくて、自分には見えないのだ。

かといって、そう思考する自分が信じられるわけでもなく、もちろん鏡が答えを映し出しているとも思えないので、自分中心で回っているようでいて、その自分すら常に疑っている。
それは確かに旅先の光景がその一瞬にしか存在しないのと同様に、あるいは矢を放ったときに一瞬ごとには矢が静止しているのと同様に、一瞬の存在は認められるはずだ。自由だと謳う自分も物を食べる自分ももどかしさに蝕まれる自分も、その度ごとに真実であって、自分が存在しないとか死んでいるというつもりは、広義では、ない。

細分化していくと、生きていることがわからない。自分には感情とされるものがあるのか、感情そのもののように荒れているときでさえ、その感情に支配されているらしい自分を遠くから観察者に見られている感覚がある。観察者などと言わずとも、いつかこの感情らしきものがストーリーに組み込まれ物語れることを期待しているような、感情との奇妙な乖離がある。

それは自分が幼少時から絵や文章を描く癖があったからかとも思う。いつか語れるのだから、と無闇に目の前の現実を過去や空想に加工することで精神を保っていたからかもしれないということだ。
徹底的に自分の内で行われる作業であり、他者の助言さえ自分のストーリーに持ち込まれる上で気まぐれに変化するのだから、他者の介在する余地はなかった。目の前の現実から逃げている、とも言える。

常に此処ではない何処かへ行かなければならない、という強迫観念と同一化し兼ねない旅の衝動も、つまりは「今ここ」にいられないからだ。所属ができない。安定や定住も息が詰まる。人間であること、からも逃れたい。例えば女であるよりは男になりたいとか、人間であるよりは鳥になりたい、とは思う。

それでも旅と同じ原理でいうと、自分はどこまで変化しても変わらず、留まっていることが困難だろう。形を成すものが無理だというのなら、魂だけになって生きていきたい、という願いはどうだろう。魂だけで生きたい。それが自然なことだから。


人間を人間として空間の中で切り離して捉えることを、自分はしていないらしい。絵画でも実生活でも同じことで、こうして絵画と実生活を別にする意味もないほど、人間を自分の中に取り込むことができない。それが他者の不在だ。そう言われて非難されるべきことだ。

思いやりや感覚以前に、集団生活を営む人間世界において必要とされる世界の像が自分には欠如している。

生まれつきそうであったというのではあまりに不確かかつ根源たる魂に身を任せすぎているので置いておくとすると、人間とされる集団に溶け込む習性を身につけられなかったのは生活環境によるものか。というと、同じということはあり得ないにしても似た状況で育ってきた幼馴染や妹の存在があるので適さない。他者の存在が、平均より弱いというのではなくて、そもそも概念として存在しないように思う。

けれどそんな自分に、身近な人間、好きな人、と指すことのできる相手がいるというのはまた不思議なことだ。出逢った初めは皆他者に過ぎなかった。それなのに、他者から自分に同化するレベルで気にする相手が出てくる。気にするとか考えるとか好き嫌いというのを超えたように感じられる相手が存在するようになる。

そのように無関心な他者から圧倒的な関心を抱く相手というのは、ほとんどの場合直感でわかる。一度の接触で天地逆転する変化はまず起こり得ないけれど、時期を経てやがて息も詰まるほどの密度で自分の心を占めるようになる。これは運命なんだと囁かれるような感覚で、この人に接したいと思う。運命が気まぐれを起こさない限り、その直感に狂いはない。そうしたいというより、そうしなければならない。旅の衝動と同じだ。
論理的な理由など存在せず、気づいたらそうなっている。あるべきところに行こうとする、あまりに純粋でその純粋さを見逃すほどの。

自分にとって他者を超えてくるほどの他者を総じて「好きな人」ということにする。現実の好意とは関係ないけれど、まるで引力か麻薬のように惹きつけられる点で、感情面の好きと何ら関わりを持たなくても、自分の中のどこかしらが好きだと叫びを上げている感覚がある、ようだ。そうであるならば自分にとって好きな人は複数存在するのであり、世界に愛があるといっても間違いではないにも関わらず、空白は埋まることなくむしろ拡張し、彷徨うことをやめない。

旅も疲れた。SNSに観光地の写真を上げまくる人は、例えばご当地のビールで大量の睡眠薬を煽ってこの橋からライン川へ落下してしまおうといった自殺の想定をすることはあるのだろうか。旅行はどうだったのと聞かれて、空気をぶち壊す悲痛な反応をする人はいないだろうけれど、本心からずっと楽しいなんてことはどこにいようがあり得ない、と自分は感じる。帰属意識のあるまま、帰れば感想を求められる旅を、自分は望まない。

生きているはずの世界に適応することがどうしても困難であるならば、その他の世界を信じ込んでそれに向かって踠いてみることは正当な行為ではないか。だから自殺は不幸だと思わない。旅が楽しい娯楽だとも思わない、それは死闘だ。人間は高等生物ではないし、絶対的存在でもない。好きだからとの理由で物事が流れて行くほど世界は綺麗ではない。今ここを信じられないならば他の居場所を盲目的に信仰していくのも悪くない。

旅は失恋の面持ちである。

#メモ #旅 #エッセイ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?