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路傍の肉

「こんなんで、本当に大丈夫なんですかね?」
 ネズミ色の全身タイツを着た男が、コンクリ床にうずくまったまま訊ねてきた。
 須賀は同じ姿勢、同じタイツで、地面についた両膝の隙間から、丸まった男の首筋に向けて答えてやった。
「相手次第じゃないっすかね」
 そのあと男が何か返事をしたような気もしたが、ちょうどエントランスの自動扉を客が開けたものだから、店内から電子音やアニメソングらしき曲がガチャガチャと漏れてきてうまく聞き取れなかった。
 何を言ったのか少しは気になったけれど、若い女性ならいざしらず、辛気臭い髭面の年配男性が相手だ。しかも、最初に挨拶した時点で名前をちゃんと聞いていなかったものだから呼びかけるのに難儀しなくてはならない。
「別に協力するもんでもないし」ぼそりと呟くと自動扉が閉じて、地階に拡がった駐車場は再び押し黙った。

 一台、また一台と車の気配が通り過ぎていく。
 避けられない用事以外は外出するなと叫ばれているこのご時世に、よくもまあ平気な顔してパチンコなんぞにやってくるものだ。
 須賀は苛立たしげに舌打ちをした。パチンコが良いなら、工場だって操業していいじゃないか。正社員になって、彼女にプロポーズして、確かな仕事を日々積み重ねて。そんな将来の輪郭がようやく見えはじめていたというのに。
 気を紛らわそうと吸い込んだ空気は、ガスとホコリで灰色になっていた。
 やおら、彼らの脇を通り過ぎた重量感のある気配が近くで停車する。
 顔を少し上げてチラリと見れば、それは黒いステーションワゴンだった。
「須賀さん、怖くないんですか?」
 一層丸まってダンゴムシみたくなりながら、情けない声で男が言う。
 小刻みに震えているその姿に、二日前の光景が重なった。

――「みんな。申し訳ない」
 そう社長が土下座をした時点で、事務机の上に何枚か重ねられた紙っぺらの内容には察しが付いた。雇い止めの通知書だ。
「正規も非正規も、パートだって、ひとりひとりを家族だと思ってやってきたし、今だってそう信じてる。けど今回は、今回ばかりは、こうする以外、方法が……。本当に、すまない」
 床の上の社長の手は嗚咽が混じるほどに震え、ついには握り拳となって地面を悔しそうに叩く。
 その年季の入った無骨な職人の手は憧れだった。ついほんの数ヶ月か前には「そろそろ社員の数を増やせそうだぞ」と嬉しそうに笑いながら、須賀の背中を痛いぐらいに叩いてくれた手でもある。
 嘘やまやかしはきっと無い。
 そもそも誰が悪いという話でもない。
 だから須賀は、派遣社員ゆえに雇い止めに遭うという不平にも、生活を立て直せるのだろうかという不安にも負けないよう、前を向こうと決意を固めていた。
 まだ様子の落ち着かない社長を慮るように、傍らに控えていた中年男性が例の通知書をみなに配っていく。次期社長だ。子息らしい。
 紙面に目を落とすと、いきなり見たことのない一文が飛び込んだ。
『クルマ止め通知書』
 二度見、三度見、目頭の辺りのツボを刺激してから四度見して、それでもよくわからない。
 次期社長の説明によると、感染リスクを低く抑えられ、また大量の失業者の受け皿となり、かつ早期に対応可能ということで、政府からクルマ止めとして人材を活用する旨の指導がきている、という話だった。給料は雀の涙だが、特例で次職が決まるまで失業保険もでるらしい。
 断れば、ほぼ確実に露頭に迷うことになる。
 須賀には逡巡などなかった。
「前を向く」
 その場でマニュアルを渡されて翌々日、彼は会社から指示されるまま郊外のパチンコ屋へと赴いたのだった――

 ステーションワゴンが後進の警告音をピーピーと鳴らしはじめた。
 隣の男も念仏を唱えはじめる。
 静かに唸るエンジンから、熱気とすえた臭いの排気ガスが涌いてジリジリと迫ってきた。
 念仏がゴホゴホと苦しそうな咳に変わる。
 後輪の太いタイヤはもう手を伸ばせば届きそうな場所まできている。ただ、運転手の技量はあまりよろしくなく随分と斜めに進入してきていた。
「ああああああああああああああああああ」
 須賀より先に、男が喚きだす。
 膝の辺りがタイヤと地面の間に挟まっている。
 しかし車はなおも後進を続け、ついに腿と脇腹の辺りまで乗り上げた。
 うずくまっていた体は横に崩れ、声は低く、呻くようなものに変わっている。
 斜めに入ってきたおかげで、ギリギリ須賀の体は轢かれていなかった。
「きっとこれから切り返す。そうなれば自分も」だが予測とは裏腹に車はそのままエンジンを停止した。
 運転手は降車すると勢いよくドアを閉め、須賀にも、苦悶の表情を浮かべている男にも目もくれず歩いていく。ネズミ色の全身タイツなんて、むしろ目立つ部類にもかかわらず。
「おい、あんた!」
 運転手は須賀の呼びかけにすら反応を見せない。
「せめてもう少し前へ」
「うううう!」
 須賀が立ち上がって詰め寄ろうかとした矢先、轢かれている男が首を振った。
「なんです?」
 男の口元に耳を近づける。
「ルールを、守りましょう」
 絞り出すような声がかろうじて須賀の耳に届いた。
 確かにマニュアルにはクルマ止めに徹するとあるが、呼吸もままならないほど乗り上げられたまま、耐え続けるというのだろうか?
 そうこうしている内に運転手は鼻歌交じりに店内へと消えていった。
 自動扉が閉じ本来は静まるはずの構内に、まだアイドリングのような音が響いている。男の呻き声だ。それも、少しずつ弱まっていくように感じられた。
 とにかく掛かっている重量を少しでも和らげようと後ろのバンパーを掴んで持ち上げようと試みた。当たり前のことだがいくらも持ち上がらない。
「誰かいませんか! 誰か!」
 見渡せば、忙しく歩いていく者、駐車している車の中でスマホをいじっている者、台車で荷物を運ぶ業者。人はいるのにどれだけ叫んでも見向きもされなかった。
 どうにか自分で車を動かせないかとバンパーに精一杯の力を込めるのだが、その度に轢かれた男が悲鳴をあげる。タイヤの下から哀願するような目で小さく首を振られ、須賀はどうしても手を放さざるを得なくなった。
 うずくまって、耳を塞ぐ。
 それでも低い呻き声は地響きのような振動になって床を伝ってくる。
「前を向く。前を向く。前を」
 止まってまだいくばくもないエンジンの熱がすぐ脇で燻っている。
 須賀は、それが徐々に冷えていくのを悟っていた。


***


 急に大きな揺れを感じて須賀はハッと目を見開いた。
 気づけばステーションワゴンはいつの間にか去っていて、隣の男は眠ったまま小さな呼吸を繰り返している。
 振動の正体は胸ポケットだった。全身タイツに申し訳程度で縫い付けられたその中身が震えている。取り出して画面を見れば彼女からの着信だった。
 救われたような安堵感とともに電話を受ける。クルマ止めの最中だろうが、誰が構うものか。
「もしもし?」
「いま大丈夫?」
「うん。まあ、大丈夫」
 彼女にはまだクルマ止めの件は伝えていない。伝える時間的な余裕がまったくなかったかと言えばそんなことはなく、本当だったら正社員になるはずで、そうしたら一緒に暮らしていこうと伝えるはずで、そんな風にたらればばかりが浮かんで、どうしても二の足を踏んでしまうのだった。
「ねえ。何かあったんならちゃんと言ってくれない?」
 女性というのは、どうしてこう察しがいいのだろうか。こんなパターンで、私のことを信じていないのかと何度なじられたことか。
 正直な気持ちを言えば、誰もが大変なこのご時世に心配なんてさせたくはない。けれど、彼女にならば、きっと声が届く。救われたくてたまらない気持ちが口を開かせた。
「その……、落ち着いたら言おうと思ってたんだけど、会社からクルマ止めになっちゃって」
「は?」
 当然の反応だ。事の顛末を順に伝えると、彼女は声を荒げた。
「なにそれ!」
「しょうがないよ。悪いのはウイルスだし」
「そういう問題じゃないでしょ!」
「――ごめん」
「は? なにそれ。何に謝ってんの?」
「いや、その、怒ってるから」
「怒るに決まってるでしょ! 逆になんで怒らないわけ? クルマ止めなんて人権侵害もいいとこじゃない! 失業保険は? 役所に電話は? 労基は? 行った?」
「いや、もう少し落ち着いてから」
「石ころ扱いなんだよ? 踏んでも蹴っても割れても裂けてもどうでもいいってことなんだよ? 悔しくなんないの?」
「でも社長は」
「どこまでお人好しなの! 都合よく使われただけでしょ?」
「うん……」
 すぐそこで赤いワンボックスカーが停車した。ピーピーと音を立てて近づいてくる。
「違うの。あなたに怒ってるんじゃないの」
「わかるよ。きっと僕もおんなじ気持ちだと思う」
「どうして何も悪くないあなたが、パチンコ客の手助けなんてしなきゃいけないのかってこと」
「うん」
「救われるべきヒトが踏みつけにされるなんて、絶対にあっちゃいけないことでしょ? 違う?」
「うん。ありがとううううううううううううううううううううううう」
 タイヤに巻き込まれ、左肘が硬い床にねじ込まれていく。骨の周りの肉が剥がれていくような音が体内に響いた。
「パチンコに出歩くようなヒトも給付を受けて、そのお金でまたパチンコに行くんでしょ?」
 少しずつ少しずつ、ミシミシと骨を軋ませながら後輪が乗り上げてくる。
 隣の男の様子を気にする余裕もない。必死に声を押し殺そうとすればするほど、自分で使ったことのない器官から無様な呻きが湧くようだった。
「それでもし感染して、巡り巡って誰かの大切なヒトがが死ぬことになったら、どう責任取るつもりなんだろ?」
 徐々に彼女の声が遠ざかっていく。
「証明できないから関係ないとか、そういう奴あたし絶対許せない」
 車は、肩甲骨を背骨にめり込ますような位置で止まった。
 うまく息ができない。
「うー、うー、ううー、うー」
「こういうときこそ、本気で怒るべきじゃない?」
 なにも聞こえなかった。


***


 あぐらをかいて呆然としながら、須賀はがらんとした構内を眺めていた。
 開いた自動扉から『蛍の光』が漏れ聞こえる。
 ようやく今日が終わるらしい。
「あの、生きてます?」
 虚ろな目で突っ伏したままの男に声を掛けた。
「ええ、なんとか」
 そう言うと、男はまだ動く方の腕を使って起き上がろうとする。そこかしこが痛むのだろう。苦悶の表情を浮かべている。
 須賀が手を貸そうと膝をつくと、またも男は首を振った。
「もし感染してたら、ご迷惑になりますから」
 男はひとりでどうにか起き上がり、痛みの余韻に顔をしかめる。
 須賀も再びあぐらをかこうとしたところで、差し込んだ痛みに思わず声をあげる。
 二人は横目がちに互いの顔を見合わせた。
「痛いっすね」
「そうだね。轢かれてるからね」
「当たり前っすね」
 男はフッと鼻から息を漏らすと、イテテとまた顔の皺を深くしてから返した。
「ほんと。当たり前だね」
 どちらからともなく笑いだす。はじめは少しだけ。だんだんとお互いに笑っている事が可笑しくなってきて、いよいよ本格的に。横隔膜が揺れるたび、痛い痛いと叫びながら。
 ひと気も失せた夜の静かな駐車場、十番をあてがわれた長方形の白線の枠内に、男が二人、並んで座っていた。


(了)

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