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自粛のとらえ方

 駅前の信号機に『青紫』が追加された。進むのを自粛しなくては。

 駅舎を出るとすぐ、そこそこ交通量のある大通りに出くわす。歩行者のほうが青紫のときに車道は『赤紫』なので、車は基本的に停車を自粛しなければならない。むしろアクセルを踏み込む素直なドライバーも多いと聞く。

 もちろん危険なので私は渡るのを自粛した。だが信号待ちをしている人間の中にへそ曲がりが混じっていたらしく、一人の男がビュンビュンと車の通る隙間を縫って横断歩道を渡りはじめた。

  危ないと注意するのを自粛していたら、彼はあっけなく撥ねられてしまった。言わんこっちゃない。いや言ってないのだけれど。

 さすがのドライバーも急停車して降りてくる。若い女だ。車道でのたうっている男に近づいていく。しかし二メートルほど手前で立ち止まると、そわそわとしながら心配そうに倒れている男を眺めはじめた。どうやら救護を自粛しているようだ。

 色濃い自粛ムードが辺り一帯に立ち込めている。

 信号待ちをしていた目撃者たちは口々に「警察だ」とか「早く救急車を」と叫びたそうにモジモジしている。

 撥ねられた男の泣き叫ぶ声だけが、信号機から流れる『三百六十五歩のマーチ』に重なっている。まったく自粛を知らない男だ。そんなことだから、出血も自粛する様子はない。

「君たち、何を自粛しているんだ!」

 振り返ると、明らかに自粛とは無縁の中年男性が立っていた。全裸だ。かろうじてトレンチコートを羽織っているが、自粛感はゼロに等しい。
 だがこの時ばかりは、周囲の人々も彼への期待を隠さなかった。この自粛の空気の中で、死にかけている男を救えるのはきっと彼しかいない。誰もがそう思っていただろう。

「今行くぞ!」

 叫ぶやいなや、颯爽と倒れている男の方へ駆けていく裸の中年。
 驚くほどの速度で走り、地面でうめく男を、通り過ぎ、女の前で勢いよくトレンチコートを開いた。
 私は気づいた。そうなる可能性を考えないよう、無意識に自粛していたと。

――信号が青に変わった。『とおりゃんせ』が流れ出す。

 人々が駆け出す。
 通りの反対側へ。

 口々に叫ぶ。
 自業自得だ! 自粛しないからだ! 危険分子だ! テロリストだ!

 雑踏が男の呻き声を掻き消す。
 私も流れに押されて歩き出す。

 ふと、一人の少年が流れから外れた。
 死にかけの男に駆け寄る。
「大丈夫ですか! 息は出来ますか!?」
 すぐ男から財布を抜き取って去る。

 誰も彼も、自制心のタガが外れてしまっている。
 自粛しすぎた反動だ。
 
 このまま見過ごすのか……?
 私は意を決して、列を外れた。
 ピクピクと痙攣をはじめた男に駆け寄る。
 急がなくては。

 直ぐに脈を確認し、上着を脱がせ、ベルトを外し、靴も脱がせ、ズボンも脱がせ、腕時計も外し、バッグも持った。口の中に金歯はない。
 そして再び走り出す。

 そもそも外出を自粛しろという話だ。
 信号機だって、『自粛』の二文字を思い出させるためにできた。

 だったら皆、何をしに外へ出てきているのか。
 商店だって飲み屋だってキャバクラだって、軒並み営業自粛しているというのに。

 走りながら後ろを振り返る。
 横断歩道をゾロゾロと渡る隊列は、老若男女がそれぞれに、デカい工具を手にしている。ハンマー、カッター、バールにチェーン。

 私なんて、じゅうぶんに自粛しているほうだ。


(了)


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