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【コラム】紀行文- to ISE of 三重に行った。ウルフの『ダロウェイ夫人』を旅のお供に

残るは窓だ。ブルームズべリの下宿屋の大きな窓を開け、そこから身を投げる。――なんとありきたりで、面倒で、メロドラマみたいな行為であることか。連中がこれをいくら悲劇と呼ぼうが、ぼくはそう思わず、レーツィアも思わない(妻はぼくの味方だ)。ホームズとブラッドショーは悲劇好き(セプティマスは窓枠に腰かけた)。だが、ぼくは最後の瞬間まで待とう。できるものなら死にたくない。生きるとはいいものだ。太陽は熱い。ただ、人間は……人間はいったい何を望むのだろう。向かいの家の階段を老人が下りてきて、立ち止まり、セプティマスを見た。ホームズがドアの向こうに来た。「悲劇が欲しけりゃくれてやる」セプティマスは叫び、フィルマー家の通路の縁に並ぶ鉄柵めがけて、勢いよく、激しく身を投げた。「卑怯者!」と、ドアを押し開けながらホームズ医師が叫んだ。レーツィアは窓へ駆け寄り、見て、理解した。

バージニア・ウルフ/土屋政雄 訳『ダロウェイ夫人』(光文社2010)

2018年5月鹿児島-三重


旅が好きだ。目的がある場合もあるし、ない場合もある。けれど多くの場合、何かを求めているような気がする。と言って、旅を終えた後、自分の求めていた「何か」が果たして「何」だったのか分からないこともある。ていうか、分からないことの方が多い。しかし、何かが手には入っている。


・・・昨年の5月、気力を得ようと伊勢神宮へ向かうことにした。4月で仕事をクビになり、自営を否応なくされた身としてはここらで一つ一念発起、天照様でも拝んで思いを新たにしようと考えたのだった。と思う。


1日・桜島インター発17:00 福岡市街へ


しかしまあ、旅をする為には金と時間が必要な訳で、失業した身の上としては、時間は有り余るほど持っていたのだが如何せん、金がない。帰ってきた後の生活のよすがはなく、当然あてもない。まあ、当面の間暮らせるだけの蓄えはあったものの、不安は拭えない。

となると、出費は極力抑えたい。ということで、路肩に立つことにした。ヒッチハイクで移動して、宿は漫画喫茶に泊まれば出費も抑えられるだろうと画策したのだった。

いざ。


2日・福岡から姫路へ(PM5時~)

しかしまあ、目的が気力を育むこと、というだけあって、旅立つ為の気力がそもそもゼロに等しかった。怠かった。バックパック背負って国内旅行なんてだせえ、という見栄もあった。そうこうしている内に時は流れ、夕刻。家にいるのもしんどくなって外に出た。何かしていないとダルくて仕方なかった。近所の文具屋でスケッチブックとマッキーを買い、衣服を鞄に詰め込んだ。

一般道で福岡行きの車を探すのはあまりにも無謀だったので、サービスエリアの中で探すことにした。桜島インターからサービスエリアへ侵入し、私はスケッチブックに「福岡」と掲げて頭の上にあげた。よく見るアレである。

30分くらい、立っていただろうか。キャンピングカーに乗った年配の夫婦が私を拾ってくれた。建設会社を経営しているということだ、二人ともよく引き締まった身体をしていた。

仕事を話をしていた時が一番イキイキしていたので、私はクビになったことを言えず、「そうっすねえ、自分も、世界に誇れる仕事してると思うんですよね~」とかなんとか適当なこと(外国人向けハローワークで働いているとホラを吹いた)を言って乗り切り、無事福岡へ。旅の無事を祈ってまでくれてなんて良い夫婦なんだろうと思った。そうして、そんな善良な夫婦にも嘘をつかなければ笑っていられない自分が恨めしかった。


3日・姫路から京都、三重県伊勢市へ

福岡ではイロイロあって、めちゃくちゃ歩いた。50kmくらい歩いて、朝の8時には、乗せてくれる人が見つかった。今度は中年の男性で、長野オリンピックでスピードスケートのコーチをしていたらしい。「人が良く通るサービスエリアだよ」、と車から降ろされ、朝食まで奢ってもらった。中年の社会人といえば、丁度、何事においてもしのぎを削っている年ごろで、あまりいいイメージはなかったが、とても親切にしてもらった。世の中は広いのである。それから4時間近く待ち(人は良く通らなかった)二人組の青年に乗せてもらうことになる。

私より一つ年上、1993年生まれの二人組だ。


車中、まあまあ盛り上がった。私は同世代が苦手だったこともあり、営業に訪れたサラリーマンの如き笑いを貼り付けていたが、別れる頃には一抹の寂しさがあった。それぐらい、楽しかった。

人としてのタイプは違った--私は内向的で、彼らは外交的だった--が、我々は快適なコミニュケーションを取れた。印象ってのは、偏見の一種なんだと悟った。

それから、ジャズ、オールドロック好きのオッチャンの世話になった。彼はいろんなジャズを教えてくれた。スマホにめもってたのだが、今ではそのスマホが天誅したので、全てがパーだ。

オッチャンは優しかった。神戸に住んでいるらしく、会話はもちろん関西弁。落語のような話をずっと聞かされた。オッチャンは、我が家を通り過ぎても私を車に乗せてくれた。夜の8時を回った頃、姫路駅に下された。宵闇の中照らし出される姫路城のなんと美しいことだったろう。スマホで写真を撮ったがスマホが壊れたので写真はない。一枚もない。オッチャンにお礼を言って別れた。オッチャンと写真も撮ったがそれも消えた。


4日・伊勢市堪能

それから、地方風俗愛好家や宮崎県嫌いの中年たちに乗せてもらったのだけど、それらは割愛。

みんないい人たちだったとだけ。

そうして、三重県伊勢市に着いた。午後の6時頃だ。そこまで乗せてくれたオッチャン(宮崎県嫌い)も伊勢神宮の下見に来たということだったので、一緒に回った。


「パリか伊勢で迷ったんですよ」

「今の君には、伊勢がよかったよ」


って会話をした。多分そのオッチャンは翌日伊勢デートでも考えていたんじゃないかと思う。

そうして、伊勢神宮の下見(雨が降っていたし、その上辺りは暗かった)

伊勢駅に着くと、見える光景はまさに観光地。とりあえず、牡蠣(店頭2つで100円)とうどんを食べた。美味かった。日本酒と共に。


5日・お伊勢参り

午前中、猿田彦神社、と、二見輿玉神社、という2つの神社をお参りして、それから伊勢神宮(外宮、内宮という作りになっている)を一通り見物、お参りをしてきた。伊勢神宮(内宮)の前は、おかげ横丁という観光地になっていて、特産品やらお土産が売っていた。ここで私は伊勢牛とか、うどんとか牡蠣や鮫を食べたのが、写真は全部なくなった。美味しかった、ということだけ覚えている。鮫の焼き物を肴に飲む日本酒は最高だった。


個人的なおすすめは、観光地化してから流入してきた店よりも、観光地化する前から既にあった店に入ったほうが、長い時間のんびりすることが出来るし、安いと思った。流動性は悪いが、せかせかと食べて飲むよりは、私はゆっくり過ごす方が好きなのだ。


5日目の夕方6時には、伊勢を出るために車を探して、帰ることにした。10分と経たない内に車が止まってくれた、ベンツである。助手席の人はビールを飲んでいた。どちらも強面で、通常だったら乗車を躊躇っただろうが、なにせ酔っていたので乗車。

愉快な二人組で、快適な車中を過ごすことが出来た。


6日・関西国際空港ー鹿児島空港ー実家

そこからが大変だった。50km以上歩いた。帰りもヒッチハイクでと思ったが、そんな体力私にはなかった。なにせ、ヒッチハイクで県を跨ぐくらい移動したのは初めてだった。ヒッチハイクで日本一周とか、すごい。薄着だったし、寒かった。


順路的には、三重、奈良、大阪という経路を辿った。

結局、何台の車に乗せてもらったのだろうか。10台近くの車に乗せてもらった。感謝感激である。

この旅を経て、私は「何」を経たのか。あまり定かではないが、「何か」は得た。少なくとも、気力は、手に入れた。写真は、もれなく消えたが、スケッチブックは残っているし、こんな記事も書けた。めでたしめでたし。


おわりに

ところで、ヒッチハイクとは何だろう。私の勝手なイメージだが、ヒッチハイク=イケイケしてる人の遊び、って感覚が強い。計画を練って、明確な目標を持って、旅に出る。それもいい。

だが、なぜ人は高いリスクを取ってヒッチハイクをするのか。安い。それもある。なんか人と話したい。それもある。

しかしとりあえずのところ、ヒッチハイクが必要な人間には「解決しなければいけない何か」があるのだ。そう、自分の問題に向き合う選択肢の一つとして、ヒッチハイクはある。理由なんて「だるい」で充分だ。私にとってもあなたにとってもそれは切実な問題なんだろう。

ヒッチハイクをブログで勧める人間が多い。まぁなんかごちゃごちゃ書いてるが、必要な箇所は持ち物のとこだけで後はどうでもいい。自分の哲学をうんちゃら書いてる人もいるが、あんなのどうでもいい(この文だってそうだ)。彼には彼の問題があり、私たちはには私たちの問題があり、それらは全く異なる。

よく分からん扇動を受けてヒッチハイクをするのは勧めない。あなたが「今」「ここ」から抜け出す必要があって、なおかつその「必要」を「解決」する手段としてヒッチハイクの一文字が浮かんできたのであれば、あなたは立派なヒッチハイカーだ。

・・・・・・なんだこれ。


p.s.ところで、ヒッチハイクにはいわゆる「コミュ力」が必要だと思っている人がいるが、それは間違いだ。乗せてくれる人はみんな「コミュ力」がある。「コミュ力」のある人の前ではみんな「コミュ強」だ。それに、基本優しい。あなたがどれだけ変なことを言おうと丁寧に返してくれるだろうと思うのでご安心ください。

(了)

左部右人(サトリミギト)
1994年生まれ
鹿児島県鹿児島市在住
普段はプログラマーとして会社勤め

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