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あなたの顔は『本当に』美しいか

こんにちは。
久賀塾の久保田です。

以前、noteで「ドリアン・グレイの肖像」について書きました。
今回はその続編なので、ぜひ前回に目を通してからお読みください。

小説「ドリアン・グレイの肖像」は、絶世の美青年であるドリアン・グレイが主人公です。
ある画家がその美貌をありのままに描き、ドリアンはその肖像画を譲り受けて自宅に飾ります。

人の人生は顔に出る、とよく言いますが、ドリアンの場合は少し違います。
どんな出来事があっても、彼自身の顔は変わらず、老いることもありません。

ただ、肖像画の中の自分だけが、人生を反映したように歪んでいく。
老いも後悔もすべて、肖像画が受け止めてくれます。

ここまでが小説のあらすじですが、さて、この状況、みなさんの身にも覚えがありませんか?
ない?

…では、LINEのアイコンを一度見てみてください。
それがあなたにとっての『ドリアン・グレイ』です。

その写真を設定するとき、
「自分がすこしでも良く写っていて、素敵に見えるもの」
を選んだのではないでしょうか。

イラストやペットの写真をアイコンにしている人も例外ではありません。
「自分はこういう人間だ」
と伝わるように写真を選んでいるはずです。

現代において、SNSはほぼ全ての人にとっての自己表現の場です。
写真を載せている人はもちろんそうですが、『載せない』という選択をしている人もです!
「SNSは更新しない」
という自己表現を行っているわけですから。

SNSに載せている自分は、いわば自分の虚像です。
人間は誰しも身体を持っていますね。
現実を生きる自分の顔と身体だけが、本当の『顔』のはずです。
それは人生を明確にうつし、他人に向けて
「私はこんな人間だよ」
と顔の作りや姿勢で主張し続けているものです。

ドリアン・グレイにとっての『肖像画』が、みなさんにとっての『顔』なのです。
そこに現れるものを隠すこともごまかすこともできません。

じゃあ隠してごまかして取り繕える、キレイな自分…ドリアン・グレイにとっての『現実の顔』は、みなさんにとっての何にあたるでしょうか。
それはおそらく、SNSのアイコンだと思うんです。

かく言う私も、一番可愛く撮れた写真しか載せたくありませんし、最近はフィルターをかけずに写真を撮る機会自体がだいぶ減りました。
現実の自分がむくんだ顔で紅もひかず微笑んでいたとしても、その唇が歪んでいたとしても、画像加工でぜんぶ無かったことにします。
だってキレイな自分だと思われたいですもん。

でもそれが、健康なことだとは…うーん、自分にまっすぐ向き合った行為だとは、思っていません。
いつもどこかで、嘘をついていることを後ろめたく思い、本当の顔を見せることに怯えている自分がいます。
加工だけに限りませんよ!
元気な自分、幸せな自分だけを世に見せていたいと思うことは誰にでもあることですから。

そんな状態って、いったいいつまで均衡を保って続くのでしょうか。

私、「ドリアン・グレイの肖像」は完璧なホラー小説だとも思っています。
ラストが本当に怖いのです。
書いちゃいますね。

老いも後悔も恐れず生きたドリアンは、肖像画の中の自分…つまり、人生を反映しているありのままの自分を直視することができなくなります。
とてつもなく醜くなっているから。

それは全盛期の美しさを保っている、自分の『顔』とはもう到底違うものだから。

その状況に耐えられずすこしずつ狂ったドリアンは、お話のラストで、とうとう肖像画にナイフを突き立ててしまいます。
その途端、肖像画はもとの美しい顔に戻ります。

床で絶命しているドリアンは、誰もそれが彼だと気付けないくらい、醜く歪んだ顔をしているのでした。

虚構の自分に耐えられなくなって、虚構を壊そうとした結果、すべての歪が自分に返ってきてしまう…そして、ドリアンは死んでしまうのです。

このラストを読むといつも思います。
SNSに載せたアイコン、美しさを保っている私の『顔』は、いつか私に牙を剥くんじゃないだろうか。

その時、現実を反映し続けている『肖像画』の私はどうなってしまうんだろうか。

ああ、胃の腑が痛くなってきました。
ここまで分かっていながら、私は今日も自分がキレイに写っている写真ばかり眺めてしまうんですよね。



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