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異形の匣庭 第二部⑥【理由】

「ようこそおいで下さいました。大したおもてなしは出来ませんが、心行くまでおくつろぎ下さい」
 彼女がタイミングよく現れたのは僕が叫び声をあげた後、恐らく襖の裏で待機していたからだと容易に想像が付いたけれど、彼に向かって礼儀正しく深々と頭を下げて挨拶したのには驚きを隠せなかった。あの粗暴な彼女が恭しい態度を取れるなんて──顔に出ていたのか後ほど脇をどつかれたが──思わなかった。
 でもその態度から、目の前の付喪神が実在することの証明になった。僕以外にもちゃんと見えているんだ、おかしくなかったんだと安心すると同時に、興奮した。この世のものならざる存在が目と鼻の先どころか、僕の手の中にいたなんて。
「あんたは私に付いて来て。お婆ちゃんから色々話があるって」
「分かった……えっと」
「行って来い、語るのはその後で幾らでも付き合おう」
「はい、あ、えーっと……九十九様?」
「はっはっは、無理に様を付ける必要は無い。九十九はあくまでも敬称に過ぎんからの、後でお主が名前でも付けてくれ」
「いや、そんな、名前無いってなんで、てかそんな重要な事出来ないって。僕なんかよりもっと適任の人がいるはずだよ、ほら、セツさんとかどう? いいと思うけどな」
「否」
 その妖怪変化だか神様の類の彼(一応男性っぽいから彼と呼ぶ)は首を振った。内側にあるページがそれに吊られてペラペラと軽く乾いた音を立て、爪ほどの大きさの古びた紙が床へと舞い落ちていった。
「他の誰でもなく、お主に頼みたいのだ。頼まれてくれるか?」
「……考えておくけどあんまり期待はしないでね」
「有難う。さ、家族の再開を噛み締めて来るが良い。儂はのんびり時間を潰すとしよう」

 彼に背中を押されて、離れを出て祖母の待つ客間へ向かう。質問が沢山あり過ぎてどれから聞いたものか、いまいちまとまらない。まさか自分が妖怪とか神様とか、オカルティックな事に巻き込まれるなんて思いも寄らなかった。いっそ夢だと言われた方が真実味がある。実はまだ東京とか列車の中にいて長い長い夢を見ているとか。
 冗談交じりに頰をつねって夢かどうか確かめていると、渡り廊下の真ん中で急に止まってキョロキョロと周囲を気にしだした。
「どうしたの?」
「しっ!……約束、覚えてるよね?」
「会ってないことに、ってやつ?」
「そう、すぐばれちゃったやつね。で、考えたんだけどつまりは約束は果たされなかった訳じゃない?」
「んまあ……そうなる、のかな? どうだろう」
「そうだよね? だからさ、約束も無かった事になるじゃん? そういうわけで私を手伝って」
「…………ん?」
「なんで理解出来ないかな。いい? 私はあなたの願いを叶えてあげました、でもあなたは私の願いを叶えてくれませんでした。つまり私の願いはまだ残ってる訳です。だからあなたは私を手伝う義務があります。分かった?」
「いや全然。ぐっ」
 右肺あたりをど突かれた。
「……せめて内容くらい聞かせて貰って考えたいんだけど」
「ここに連れて来たよね? 私がいなかったらここに来れなかったんだからよろしくね」
「えぇ……」
 言うが早いか断る隙も与えず大股で歩き出した。背中からでも満足そうな雰囲気が伝わってくる。強引なやり方は彼女らしいけど、さっきの礼儀正しい態度をもっと前面に出してくれても罰は当たらないんじゃないかな?
「何突っ立ってんの! 行くよ! この家広いし迷ったら私が色々困るんだから!」
「……了解」
 彼女からお淑やかさを感じることははきっと一生無理だろうな。
 途中で覚えるのを諦めもう何度目かになる角を曲がると、一枚板のテーブルが据えられた居間に到着した。祖母が麦茶とお茶請けを用意してくれていた。
「着物の丈が合って良かった。よく似合っていますよ。さあ座って。お腹が空いてるでしょうけどご飯が到着するまでの間、ここでお菓子でも摘まんでいましょう。鳴海は着替えてらっしゃい。」
「えー、お菓子全部食べないでよ、あんたに言ってんだからね」
「意地汚い事言ってないで早く行きなさい。ご飯に間に合わなくなりますよ」
「はーいー」
「……さてと。継、本当に遠いところから良く来ましたね」
「あ、はい。お風呂まで貸して貰って有難うございます」
「いいんですよ、そんなに畏まらなくても。まあ……小さい頃に会ったっきりだから無理もありませんね。改めて自己紹介でもしましょうか。私は山鳴セツ(やまなりせつ)、あなたの祖母に当たります。あなたの母、燈をここで育ててきました。あの事故で燈を亡くしてからあなたの事をずっと心配していました。けれど……こんなにも立派に育って、燈もあちらで喜んでいるでしょうね」
「有難うございます」
「そうそう、あなたにこれを」
 そう言って一枚の写真を見せてくれた。日付は八月十二日、生まれたばかりの赤ちゃんを涙ながらに抱く二人の写真だった。とても幸せそうな顔をしている。これだけ見れば普通の微笑ましい瞬間の写真だけれど、僕には違った。
「見せて貰って有難うございます、母が嬉しそうで何よりです」
「あなたに差し上げます」
「……いえ、お気持ちだけで」
「そう……じゃあ話せると思った時でいいから」
「……すみません」
「謝る必要なんてありませんよ。とりあえず帰るにしても帰らないにしても、今日はもう遅いからここに泊まっていきなさい。私から連絡しておきますから」
「……はい」
 祖母が写真を後ろの戸棚に仕舞っている間に、麦茶を一気に飲み干す。氷が唇に当たって冷たくなるのも構わず最後の一滴まで。お風呂上がりには爽快なはずなのにいまいちそう感じないのも、見たく無いものを見たせいだ。折角逃げて来たのに、どうしても付いて回るのが堪らなく不快で、虚しかった。
 氷が転がってカランと子気味良い音を鳴らした。祖母は何も喋らず、空になったコップになみなみと麦茶を注いでくれる。収まらない口の粘つきを落とそうと手に取っても、何となく申し訳ない気持ちが溢れて来て置き直してしまった。
 昔ながらの振り子時計がカッチ、カッチと時間だけは進んでいることを教えてくれる。しばらくして七時を告げる鐘が鳴り、鳴り終わると祖母が口を開いた。
「あなたが今日見た物は全て現実です。中々信じがたい話だとは思いますが、妖怪も神も仏も、悪魔も幽霊も存在しています。この家にもあなたが登ってきた山にも、或いは東京の雑踏の中にも。森羅万象、ありとあらゆる所にいるのです。勿論今すぐに全て信じろとは言いませんが例えば……燈の作ったノートもその一つです。彼等を総称して『付喪神』と呼びます。個々に名前がある訳では無く、一つの概念としての付喪神。その神や妖怪が物に憑依した状態を私達は広義として『神憑き』と呼んでいます。幽霊の正体が柳である様に、柳の正体もまた幽霊なのです」
「……それは、幽霊だと思えば何でも幽霊で、付喪神だと思えば何でも付喪神って事ですか?」
「平たく言えばそうですね。付喪神まで昇格するにはそれなりの条件がありますし、条件を満たしたからと言ってその全てが力を持つわけではありませんが」
 祖母の原理でいけば、この机も服もあんな風に変化してしまうのか。
 机には既に足があるのに更に生えてきて、その生えた方の足で歩いている様を想像すると、何だか滑稽だった。続けて祖母は語る。
「私の家は二百年前より代々、神仏やその他のものを取り扱う事を生業とする一族です。私の上に五人の兄弟姉妹がいますが、取り分け私が一番彼らに近かった為に、この家の任を引き継ぎました。普通の人では神憑きになったそれらに対処出来無いために、古今東西国内外を問わずにここを頼る人達が居ます。そして、私の代より屋号を「万屋てんしょう」と改め、人と彼らの仲介役をしています。ここまでで何か質問はありますか?」
「…………えっと。その万屋が仲介役っていうのは何となく分かったんですけど、具体的には何をしている会社というか職業? なんですか?」
「神様が天界や極楽に還るお手伝い、と思って貰って差し支えありません。先程普通の人には対処出来ないと言いましたけれど、普通の人にはただ物が動いている様にしか見えていません。俗に言うポルターガイストですね。そんな自由気ままに動き回る物が自分の家にあったら継はどうしますか?」
 もし机や本が勝手に宙を飛んでいたら恐ろし過ぎる。金曜ロードショーで観た「ポルターガイスト」を彷彿とさせる光景が見れる事は間違いない。
「ポルターガイストと厳密には違いますが、つまり、そのポルターガイストを起こす原因を鎮め現世から去って頂くよう説得し、帰り道を作る仕事です」
「じゃあテレビとかで心霊映像の特集やってるのにも神様が映ってて、それで動いてるんですか?」
「神は基本的にビデオや写真には映りません。加えて言えば、霊の仕業と銘打っているあれらの殆どは偽物です」
「に、偽物?」
「ええ、むしろ偽物ですらありませんね、ただの作り物です。裏で人が動かしています……がっかりしましたか?」
「がっかりというか、そもそも信じてなかったのでなんとも。テレビですし」
 お風呂上がりに、昼間携帯のカメラで撮った写真を見ようとフォルダを開いても、門の写真なんか一枚も無かったのはそれが理由だったのか。納得する反面、ちょっと残念だ。
「ごく稀に本物もありますけど、そういう所謂曰く付きのものは殆ど市場には出て来ません。以前は何百本かそこらに一本程度ありましたけど、今はそもそも感じ取れる人が希少ですから」
 そう言ったものだから、てっきり祖母が霊を見れるものだと勘違いしていた。勘違いは翌日にも笑って正されたけれど、仕組みが違うらしい。
「何を質問したらいいかあまりはっきりとはしてないんですけど……おば、お婆ちゃん」
「ふふっ、いきなりお婆ちゃんは難しいでしょうから、セツでいいですよ」
「じゃあ……セツ、さん。母もセツさんと一緒に万屋の仕事をしていたんですか」

 母は幼い僕に沢山の物語を聞かせてくれた。それはとても神秘的で、アルピニストとしての母が語るには些か幻想的過ぎる話が多かった。母の話をする時の顔が好きで話をせがんでいたけど、どこから仕入れているのか不思議で堪らなかった。大きくなったらね、と秘密にしている間にこの世から居なくなってしまった。
 セツさんは深く息を吐き出し、遠くを見つめながら優しく語ってくれた。
「燈も彼らを知っていて多くを頼まれてくれました。趣味の登山をする傍ら、その土地土地で起きる神憑きに対処し、実際に私を何度か助けてくれた事もあります。本当に……何に対しても努力家で、趣味も家業も育児もどんな事も楽しそうにしている姿は皆に元気を与えてくれました。一人であなたを育てると言った時もこの子なら大丈夫、立派な子に育てられるだろうと思った……きっとあなたも沢山話を聞かせてもらったでしょう? 大人になって継がお腹の中にいると知った時の喜びようったらそれはもう子供みたいにはしゃいで、見てるこっちが止めに入るくらいでした……まさに太陽みたいに元気の塊みたいな仕事もあなたを産むギリギリまで手伝うと言って聞かず、生まれてからもあやしながらノートに書き記していました。出来るだけ緻密に、知り得た事は全部書き漏らさないように、あなたに伝えられる様に」
 そうか……だからあの人は……
「じゃあ母は、山岳ガイドじゃなかった?」
「いえ、そちらもしっかりとこなしていましたよ、山が好きですからね。アルピニストとしての彼女は優秀でしたし、勿論その傍ら万屋として奇譚を集め、困っている人に手を差し伸べていたのもまた事実です。いつかあなたが大きくなって理解出来る歳になったら話したい、きっと理解してくれると言っていました」
 母の仕事は趣味が高じた山岳ガイドだと聞かされていた。リュックの左側に掛かっている壊れかけのカラビナは、お守りとして母がくれた物だ。頭に包帯をした痛々しい姿で帰ってきた時、びっくりして怖くて、これでもかと泣きじゃくった。翌日になってもぐずったままだったのを見かねてか、カラビナを取り出して「私の命を救った物だから今度は継を守ってくれる」とあやしてくれたけど、それより母が居なくなるのではと怖くなって更に泣いてしまい、困らせた事は鮮明に覚えている。
 その翌月、ガイド中に崖から落ちそうになったツアー客の身代わりになり、滑落して死んだ。大人達は山で死んだなら本望だったろうと口を揃えて言った。でも僕は自分のせいだと酷く後悔した。お守りを貰わなければ母は死ななかったんじゃないか、そう考え出すと涙が溢れてきて止まらなかった。どうしようもなかったんだと自分を言い聞かせても、ふとした瞬間に昨日まであった母の残像が見えて、その度に溢れ出る涙を止めてくれる人はいなかった。
 小学校四年生の時、家族について書いてきなさいと宿題を出され、仕方なく僕を引き取った親戚に母の事を尋ねてみた。結果は察しの通り、教える事は無いと何も教えてくれなかった。でも、刑事ドラマなんかを見ていれば誰でも簡単にわかると思うけど「教える事が無い」のはつまり「僕に教える事は無い」って意味になる。だから、僕にだけ秘密にしている何かがあるんじゃないかと問い詰めた。結局ぬらりくらりと躱され、分からず仕舞いのまま。中学三年になっても、母が山歩き以外に何をしていたのか知る機会は一度も訪れなかった。
「もっと母の話を聞かせてください。母が見ていた世界を知りたいんです」
 僕がそう言うと、祖母は微かに目を潤ませながらにっこりと笑った。
「……ええ、勿論ですよ。あの子もきっと喜ぶでしょう。鳴海、そこに居るのバレていますよ。隠れてないで早くこっちにいらっしゃい」
「別に……隠れてたわけじゃないんだけど。タイミング見計らってただけ」
「いいからいらっしゃい」
「……はい」
 彼女がバツの悪そうな顔で現れると同時に、どこかで荒々しく叩く音がした。
「シゲさんね、鳴海手伝ってあげて」
「また私ぃ? お婆ちゃん人使い荒過ぎ」
 と言いつつも僕の方をチラチラと見てくるあたり、お前が行けという事だろう。
「あ……じゃあ僕が代わりに行きます」
「あなたが? でも、玄関までの道を覚えていないでしょう」
「教えてもらえれば多分……自信はないですけど」
 行き道を教えてもらいなんとか玄関に辿り着くと、そこには予想通りシゲさんと呼ばれる大男が大量の肉やら魚やらを詰め込んだ冷蔵バッグを引っさげて待っていた。写真で見た山賊の雰囲気そのままに、歳だけ重ねたらしい。自己紹介すると「お前があいつの倅かぁ! でっかくなったもんだ!」と涙ながらに熱烈なハグで歓迎され、髭が顔に刺さって暫く痒みが治まらなかった。荷物を受け取って伝言を伝えると僕の背中を強く叩いて、素早く奥に消えて行った。確かに悪い人では無さそうだ。
 一時間が経ち、シゲさんの顔がお酒のせいで猿のお尻になった頃、気が付くといつの間にか鳴海は消えていた。多分大粒の涙を流しながら笑うこのおじさんが原因で、びしょ濡れの被害に遭う前に退散したのだろう。子供の僕が大の大人を慰める不思議な構図は十二時過ぎまで続き、シゲさんが間違って僕のコップにお酒を注いでしまい、それを僕が飲んだ所で会はお開きになった。トイレから辛うじて離れに辿り着くと、登山の疲れと相まって付喪神の事も忘れ深い眠りの世界に落ちていった。


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