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異形の匣庭 第二部⑬-1【穢】

 自分の叫び声で起きるのはこれで二度目だ。
 途轍もなく高い崖の上から落下して、落下し続けて、どんどん暗闇に飲み込まれていく夢。非現実的な夢なのに嫌に生々しく、風やとっぷりと闇に浸かる感覚がまだ体に残ってる。それに最後に僕の背中を押し、来るなと言ったあの声……屋敷にいたあの女の子の物の気がする。ベスに追われるとか屋敷から抜け出せないとか色々見そうなのがある中で、そんなに印象に残っていたってことなのかな。あの子のせいで大怪我したとも言えるし……。
 いや、夢はただの夢だ。時計を見れば6時指しているし、痛みで寝苦しかったからそんな夢を見た、それだけだ。

トン、トン 

 ノックされ答える間もなくドアが開き、父が部屋の中に入って来た。
「おい、大丈夫か?」
 誰かと電話していたのか、携帯を片手に持っている。学生は夏休み真っ只中だが、世の中は相変わらず忙しいようだ。
「ごめん、大丈夫。ちょっと寝れなかっただけだから」
「そうか……傷が痛むんなら鎮痛剤飲んだ方が……ん? 本当に大丈夫か? 泣いてるぞ」
「え? あ、いや、大丈夫、大丈夫だから」
 顔を拭うと確かに泣いていたようで袖に黒く染みが付いた。再度大丈夫だと伝えると無理はするなと一言言い、また電話に戻って行った。
 これから二度寝する気にもなれず、僕はそのまま起床し今日これからの事を考えた。苛撫吏の行動や母さんの死の真相も分からずじまいではあるけれど、一体何をしたものだろう。日記を検める必要はあるとして、今日は1日家でゆっくりしておくべきじゃないだろうか。
 父は9時前に仕事に出るし、学生の本分である夏休みの宿題は早々に終わらせてしまいやることがないわけで。
 リビングに向かいテレビを点けると今週の芸能ニュースをやっており、KAT-TUNの赤西仁が脱退する話題で盛り上がっている。クラスの女子達がこぞって赤西か亀梨かと論争しているのを小耳に、いや耳にタコが出来るくらい聞いていた。それが脱退するとなるときっと阿鼻叫喚だろう。
 鳴海はこういうのを観るのだろうか。友達とああだこうだと話しているイメージが湧かない……と言うか友達がちゃんといるのかも怪しい。あんな性格で友達が……僕にいないからって鳴海もそうだとは限らないか。
「実はつい先日個人的に旅行で行ったのですが──」
 続けて夏休みに行きたい旅行地で、丁度出雲が特集された。神門通りの景観のビフォーアフターが出て、観光客の増加についてアナウンサーがあれこれと説明している。
 つい昨日までは僕もそこにいたんだよな……
「──多くの方にご協力頂いてこの石畳は作られたんですね、こちらは去年の映像なんですが──」
 映像に切り替わり、住民がタイルに各々のメッセージを書いている様子が流れ始めた。一生一緒にだとかずっと笑顔でいられますように、なんて言葉が色とりどりのペンで書かれれている。
「あっ」
 インタビューを受けるカップルの背後に、ほんの一瞬だけ鳴海の姿が映った。
 彼女にしては珍しく私服姿だった。薄手で灰色のパーカーに青色の半ズボンという出で立ちで、手の平大のタイルに一心不乱に何かを書き込んでいた。その内容は人に隠れて見えなかったが、見間違えでなければパーカーには穴が空いていたしかなり草臥れていた。半ズボンは色味からして体操服のズボンの可能性もある。周りの着飾った人達と比べてやはり浮いているし、そこらの男子小学生より酷い。極めつけは頬に貼られたガーゼ。
 ……胸が締め付けられる。去年の映像から鳴海の状況は何も変わっていないんだ……僕一人じゃ何かしたくても何もしてあげられない。父に言えば、警察だとか相談所だとかに連絡して貰えるだろうか。既に相談した結果があれなのだろうか。
「父を殺したい」
 そう言っていたけれど、それ以外に道は無いのだろうか。
「継、俺はもう出るが何か帰りに買って来て欲しいものはあるか」
「え、あ、もうこんな時間か……」
 話しかけられて我に返るとまた時間が飛んだ様に進んでいて、父が出勤の支度を終えていた。
「ううん、特に無い。大丈夫」
「そうか。何かあれば連絡しろ。あと無駄に動いたりせず安静にしとくんだぞ」
「……うん、大丈夫」
 父はバタバタと家を出て行き、ロックの音を最後に家の中は誰もいないくらいに静かになった。適当に冷蔵庫からお茶や摘めそうな物を物色し、横の棚からお菓子を取り出して脇に挟み部屋に戻る。
 そして机の上に日記、古典の辞書、写しかけのノート、食べ物を並べ深く呼吸をし、日記の開いた。
 過去、まさしく地獄絵図だった島根の地の住民達をもっと詳しく知らなければ。
 母さんの為にも……自分の為にも。

 そして今日、現状分かる範囲で訳した日記をここに書き記したい。



『穢世ノ渡リ■■■』

慶応四年(正確な日にちは不明)

 事の始まりはある男との出会いであった。
 男は浄巾(雑巾のこと)の方がまだ幾分ましに思える程大変みすぼらしい、最早襦袢(今の肌着の代わり)とも言えない物を身にまとっていた。
 一目見、男が件の村の出であると察された。私の出で立ちで男もまた出自を察したのか、目を見開き驚いた様子でその場で頭を下げた。
 私は草原より身体を起こし(寝ていたと思われる)男を観察した。何も言わずとも考える事が手に取る様に分かり、顔にも困惑が浮き出ている。
 私とてここまで赴くつもりではなかったが、当所も無く歩いた末である。
 男は関わらんとする心持ちから、十歩先をぐるりと避けて山へ入ろうとし、私はそれを呼び止めた。
 身体をぶると震わせ、向き直り声を発した。
「へぇ、何でしょう」
 それは深く心(芯の意味?)に響く声であった。
 私は男に立ち(出自)を尋ねたが、答える程の者ではないと返した。暫し沈黙が流れ
「私は松江藩猪目家が長女、真千と申す。どうかお主の村に案内しては貰えないだろうか」
 と問うた。殊更憎むべき一族が長女を前にし、心を抑えろとは竹の姫の無理難題よりも遥かに難しい。
 男は腰に携えた小振りの鎌に手を伸ばす。
「待たれよ」
 言うが、男の身体も内も怒りに満ちている。
 さく、と草が音を立てる。
「今ここでお前に殺されたとて致し方ないが、だが待たれよ。ここでお主と会ったのは天がそう仕向けたのだ」
「何を言うか。どれだけがお前達のせいで死んだと思っている。天がそう仕向けたのなら、やはり今ここで殺してやろう」
 もう一間も傍まで来ていた。男の怒りに空気が揺れているようで、重々しく私を震わせる。
「私はあの家を出たのだ」
「何?」
 言わねばなるまい。男や件の村の者に対しては勿論だが、しかし、それ以上に私の心が、体が、これ迄のうのうと生きて来た私の人というものが許してはくれないのだ。
「あの家を出た。お主達に行った悪逆非道の数々が、それを良しとするあの家の者らがどうしても許せなかったのだ……頭を下げたとて昔が無くなりはしない。しかし私はお主達に詫びたいのだ」


  神の国を過ぎ人の踏み入らぬ山を2つ越え、切り立った崖に囲まれた土地にその村は在った。そこでは多くの穢れを呼び寄せ毒虫が這いずり廻り、人成らざる者を産み出す事数知れず(穢多非人の事?)。山に入っては獣を狩り肉を食べ木の根を齧り、稀に里に下りては鞣した皮を売り暮らしていた。
 世に知る者は少なく、敢えて口にする時は畏怖と侮蔑の念を込めて、「穢世(えぜ)」と、そう呼んだ。

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