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動物にまつわる説話『鹿』

T県U市近郊〜喫茶店マスターの話〜


「個人経営でそこまで広い店ではありませんし、付近にお店自体が少ないのでお客さんとよく話をするんですよ。まあ聞き耳立てるだけの時もあるんですが、その時は常連の方1人だけだったのもあって他愛の無い世間話をしてたんです。町内の誰それさんが、みたいな。平日はいつも6時に店を閉めるんですが……夕方5時ちょっと過ぎてましたかね。
 髭面の男性が1人いらっしゃったんです。ひと目で登山帰りだなって分かりました。店から少し行った所に登山道があって、時折登山されてる方が寄って来られてたので、格好とか、何となくの雰囲気とか、そういうので。で、その方がテーブル席に座られたんです。荷物があるからでしょうね。
 それでいつも通りお水とメニュー表をテーブルに置いたんです。そうしたら物凄く驚かれたんですよ。
 ええ、本当にただ軽くコトって音がする程度に置いただけなんです。勿論私も驚きましてね、大丈夫ですか?と聞きました。そうすると暫く黙って小さく『コーヒーを』と。多少訝しみましたけど、詮索して面倒を起こされても困りますからね。とりあえず淹れようと思いまして。
 常連さんと目配せしたりしつつまた談笑に戻り、淹れ終わったコーヒーを運びました。でも手が震えてるのか全然飲めないんですよ。カタカタカタカタ言わせながら飲まれてたので溢れてしまったんです。仕方なく布巾を持ってもう一度お声掛けしました。
 するとまた何か呟いたのですがよく聞こえなくて。聞き直すと『鹿はいますか』って言ってるんです。ええ、鹿です。動物の。
 店内にはいませんし付近に動物園もありません。この辺からだとかなり乗り継がないと動物園は無いですからね。あ、そうです南区の。そこのことを言ってるのかと思ってそう伝えたんですが、やっぱりそうじゃないみたいで。じゃあ何なんだって話ですよね。
 そこでようやく気付いたんです。その男性のリュックがね、ボロボロだったんですよ。年季が入ってるとかじゃなくて泥まみれで所々穴も空いて、どっかで盛大に転げ落ちたか、もしくは誰かに襲われたみたいに。
 初めは山中で誰かに襲われたんだと思いました。だから警察お呼びしますかって聞いたんですけど、そうじゃないって言うもんですから何があったか聞いたんです。
 自分でもまだ信じられない話なんですけど、と前置きされてその方は話始めました。

 仮にその方をNさんとしておきます。Nさんはつい二年前に山登りを始めたそうです。山というか丘くらいの高さから始めて、少しずつ高さと難易度を上げたりして、今年からは所謂ソロキャンプも始めたそうです。私有地なんかの禁止エリアも多いので探すのが大変らしいですが。仲間内からおすすめの場所を聞いたりして、そこの山に辿り着いたんだとか。
 昨日はよく晴れていて絶好の登山日和で、登山口に着いた時点で数名の登山客がいました。
 実際私も見かけましたから、それは間違いないです。
 位置関係だけ先に言っておくと、1番近い有料駐車場がここから町の方に200メートル程行った所にありまして、ここから400メートルくらいで登山口です。なのでよく登山客がここを利用してくれる、という訳なんですが。それはさておき。
 Nさんは1人で山を登り始めました。
 キャンプもするつもりでしたし、ゆったりと歩みを進めていました。目的の場所は六郷目を少し過ぎた辺りで右に逸れ、30分程進んだでしょうか。
 それまで空を覆っていた木々が避ける様に、気持ち良く空の見える切り開けた場所に着きました。近くに民家はおろか建築物の1つも見えない、キャンプするにはうってつけの空き地です。
 恐らくここのことだろうと、Nさんは早速テントを張り始めました。虫の音と鳥の声が澄んだ空気に木霊するのを背に黙々と作業し、気が付くと橙色の陽光が差し込んでいます。
 Nさんはバッグからランタンを取り出し、テントに括り付けて夜を迎えました。
 食事を済ませたNさんは月明かり照らす原っぱの下、ランタンの明かりで読書していました。1人読書に耽るのにちょうど良いそうですが、山の夜は本当に静かなんだそうです。虫の音も鳥の声も途切れた瞬間には、それはもう耳鳴りがするくらいだそうで、昨日がまさにそんな感じでした。

 時間は10時を回っていたでしょうか。
 突然辺りがフッと暗くなったそうです。
 Nさんは月を雲が覆ったのだろうと別段気に留めず読書を続けていましたが、どうにも落ち着かない。
 誰かがこちらを見ている……そんな気がしました。
 こんな山奥で、しかもこんな夜中に自分以外に誰かがいるなんて考えられない。しかし舐める様な視線を感じられて仕方ない。
 Nさんは入念に周囲を見渡しましたが、暗闇なのもあって見付ける事は出来ません。
 やはり気の所為か。
 そう思って腰を下ろして空を見上げた瞬間
「ヒュっ」
 引き攣った喉から絞りカスの様な息が漏れ出ました。

 真っ暗闇の中にポツンと、煌々と金色に光る一対の巨大な目が浮かんでいたんです。

 見上げる程巨大なそれ。音も無く突如として現れた巨大な何者かに、Nさんは身動ぎの1つも出来ずその場に固まったまま、それと目を合わせるしかありませんでした。
 風すら聞こえない緊迫した状況が続き瞬きも息も忘れていたNさんでしたが、次第に目が慣れ、それがある動物の姿だと分かったそうなんです。
 そう、鹿です。細長い顔の左右に光る目。枝分かれした雄々しい角。それが自分を覗き込んでいる……
 高速道路や山間部の道には動物注意の標識があるくらいですし、鹿に遭遇してもおかしくはないかもしれない。しかし何かがおかしいと直感がつげている。
 この鹿の一体何がおかしいのか……目をあわせたまま視界の端々で原因を探り、Nさんは気づきました。
 顔が近くにあるんじゃない……体が馬鹿デカいんだと。その事実に気付いてからは落ち着き始めていた恐怖が、より大きな波になってNさんを包みました。
 自分の体勢もあるでしょうが、それでも手が届かない程の高さにある顔。動物園で見た鹿は勿論、大人のキリンすら凌駕するであろう巨体が、じっとNさんを覗き込んでいるんです。視界の下の方に見えるその巨体に似つかわしい巨大な角は、最早2本の木と言っても過言でない程。 
 巨大な鹿というと皆さんはまず何を思い浮かべるでしょうか。ええ、私も同じです。もののけ姫です。人面では無かったらしいですし無機質な表情では無かったそうですが、恐怖を覚えるには十分でしょう。
 意思に反してガタガタと震え出す体。
 死、という言葉が頭の中いっぱいになったそうです。

 鹿は徐に顔を上げ遠くを見ました。
 Nさんも釣られてそちらの方を見ると、開けた原っぱの奥にある森が不規則に揺れているのが目に入りました。風は無いのに枝が揺れている。
 この鹿のせいなのか? その疑問に答える人もいなければ、自力で答えも出せ無い訳ですから、Nさんはただ事の次第を見守るしかありません。
 あまり先延ばしにしてもあれなので先に答え合わせしますが、その揺れの正体は無数の鹿だったそうです。オスメス問わず、兎に角数え切れない程の鹿。
 それらの歩みで草木が分けられ、揺れ、不規則に揺れる枝は彼らの角がそう見せていたんです。
 鹿達は月光照らす空き地へと姿を現しました。最低でもざっと50はいたでしょうか。瞬く間に空き地は埋め尽くされ、生えている草を無心で食べ始めました。青々と茂っていた草は見る見るうちに姿を消し、茶色い地面が見える頃には各々その場で休んだり毛繕いをしているものもチラホラと。よくある動物園の光景にそっくりです。
 その光景にほんの一瞬気が弛んでしまったNさんは思わず
『はぁ』
 と、肩の力を息を抜いてしまいました。音が出る様なものではなく、本当にただ息をすぅっと抜いただけ。それだけなのにそこに居た鹿達は全てバッと顔をNさんに向け、微動だにせず闇夜より暗く黒い目が見つめます。Nさんが悪かったというよりはこの鹿達がかなり繊細なのでしょう。
 また息が詰まる時間が……と思われたその時、今度は背後に聳える巨大な鹿が動き出しました。もちろん音も匂いも風も無く、です。巨大な鹿は鹿達の頭上を山の方に向かって悠然と歩いて行き、空き地を通り過ぎて森へと入って行きました。それで初めてその巨大な鹿の全貌が見えたそうなんですが、複雑に生え伸びた角と全身を覆う白銀の体毛、そしてその体毛自体が波の様な動きで光っていたのだそうです。

 この鹿が視界から消えてすぐ、Nさんはテントもその他の荷物も片付けずに脱兎の如く逃げ出しました。夜の山で何も持たずに走り回るなんて危険極まりないですし、今思えばその場にいれば良かったと言っていましたが、まぁまともな状況で無かった訳ですから仕方の無いことかもしれません。
 Nさんはどうにか市街地まで降りようと一夜動き続けましたが結局朝になっても降りられず、いつの間にか元いた場所に戻ってきていたそうです。あの巨大な鹿やその他の動物の気配に怯え、心身共に疲れ果てNさんを待っていたのはボロボロになったテントやバッグ類でした。
 私も再度確認させて貰いましたが、あの鹿達がやったのか穴も空き放題でもう使い物にはならないでしょう。

 それからNさんはコーヒー飲み少しだけ軽食を食べ、店を後にしました。山登りは辞めて出来る限り山には近付かないとやつれた顔でそう言っていましたが、連絡先などは聞いていませんのでその後どうなったのかは分かりません。
 


 余談、ではありますが、鹿というのはもののけ姫しかり昔から妖怪として表現される事が多かったようです。
森林伐採によって住む場所を奪われたり、もしくは大量に繁殖してしまった鹿が人里に大挙して押し寄せたり。そういった災害としての面を持っていて、古代の人々は畏れていたんだとか。
 Nさんが見たという巨大な鹿がそれだったのかほんとの所は分かりませんが、もしかするとあの山を守っているのかもしれませんね」

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