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テニスで叫ぶ、「雑さ」から繋がるナワール、なぜ外に向けて書くのか(11/5)

友人とテニスをしてきた。テニスで叫ぶのが楽しい。ボールが思ったように飛ばなかったとき、何かしら叫ぶ。自然に声が出る。普段あんなに叫べる機会なんてないから、ここで衝動的なものを発散している気がする。自分の中にある「ディオニュソス的なもの」を表に出してやることができて、心にも体にもとても良い。色んな趣味がある中、うまくいかなかった時にテニスはとても叫びやすい。コートが広いのがいい。開放的だ。コートの中に縛られず、色々と遊べばいい。

今日は、テニスにおいて「雑さ」を意識した。結果的に言えばとても良かった。ボールのみに集中するという「丁寧さ」を止め、自分のフォームを美しくするという「丁寧さ」を止め、無駄のないステップを行う「丁寧さ」を止めた。これにより、ボール以外にもコート全体や相手の状態が良く見え、ボールをどう飛ばしたいかにより多くの意識が割かれ、とにかく飛ばしたい方にボールを飛ばすための場所にただ移動した。

カメラで見ていないからフォームは良くわからないが、スムーズな動きにはなっていたと思う。力が上手く抜け、体幹の重みや回旋の力がラケットへボールへと滑らかに流れた気がした。だから気持ちよくコートをダンスできた。純粋にテニスを楽しいと思えた。「上達する楽しさ」ではなく「テニスのそのものの楽しさ」。全身を動かして、ラケットを振り回し、ボールに力を流し、ある程度思った軌道でボールが飛んでいく、というこの一連のプロセス、運動が楽しかったのだ。

物事に存在する「それ自体の楽しさ」を明確に認識できた。逆にいえば、これを認識できていないとき「上達する楽しさ」に逃げようとする。何か上手くなることは楽しい。そして今日は1つできるようになることがあった。だから楽しかったのだ、と。まるで言い聞かせるように。しかし、「それ自体の楽しさ」は言い聞かせる必要もない。何を得たかなんて情報は要らない。ただ楽しかったのだ。

「それ自体の楽しさ」は、きっと「雑さ」から来た。丁寧であろうとしていたら、それは何かに丁寧になっていたということだ。何らかの同一性を保とうと神経症的に集中していた問いうことだ。フォームの丁寧さ、ボールタッチの丁寧さ、ポジショニングの丁寧さ。自分の理想となるべく同一に近づける。丁寧に、丁寧に。これをしていたら僕の場合は、テニスのどこか一要素のみに意識が向いてしまっていて、テニス全体を楽しんでいなかった気がする。真木悠介『気流の鳴る音』におけるトナールに縛られナワールを感じ取れていない状態だ。そうか、今日おれはテニスという世界のナワールを感取したのだ。

丁寧さとはトナールであり、理性であり、ロゴスだ。それらはナワールをより豊かに感じ取るための足場にすぎない。だから、丁寧さは、雑さと雑さの中間的な場所が適している。そして、雑であることにこそナワールへの接続可能性が宿っている。

トナールが二項対立なら、脱構築をはじめとする現代思想の概念は、ナワールへの再帰を目指しているのかもしれない。

銭湯で露天風呂を楽しんだあと、隠れ家的な美味しい居酒屋に入って談笑。ここの料理があまりに美味しかった!

友人から写真についての話を聴き、「写真は趣味だから別に評価を求めてないし、だから外にも出さない。自分で良い写真が撮れるのが楽しい」ということだった。全く外に出さないのは自分は無理だな、と感じ、だからこそこのようにnoteで考えたことを書くようになったのだろう。

しかし、それでも「いいねが来やすいような記事」というのは書かないようにしている。そうしたら「なんか違う」から。書く楽しみから、評価経済への疎外が起こってしまうから。

ではなぜ外に向けて書いているのだろうと考える。それは誰かに伝わるように書く、という意識が少しあることで、文章が整うからだろう。文章が整うということは思考が整うということだ。何かしら緊張感が生まれる。緊張感は書く内容をいい塩梅で縛ってくれる。これが整いを生む。でも「いいね」の評価経済には巻き込まれないように抵抗はしているから、「バズる文章」よりはかなり無秩序で自由にやっている。このバランスがちょうどいいのだ。

あとは、せっかく考えたことなのだから、誰かに一部でも届くかもしれない、外に開いていれば、他者性のある「開いた出来事」が起こるかもしれない、という期待も込められているのだろう。僕はなぜ外に向けて書いているのか、という問いについてはこれからも折に触れて考えていこう。柿内正午『あまり読めない日々』にも書かれていたように、答えを適当にほっぽっといていいところが日記の良いところなのだ。

(ツイートメモ)
「私のトリセツ」という言い方があるけど、私の中に無意識という他者が誰しも存在する以上、私自身「私のトリセツ」なんてよくわかっていないんじゃないかな。むしろ、見える部分(自我)だけを基準に「トリセツ」を書いてしまったら、そのトリセツに抑圧された無意識の自分が叫び声を上げるだろう。


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