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「なんか退屈だ」という君へ

退屈という悩みは、深刻そうじゃないから相談しづらい。大変そうな問題を抱えている人はたくさんいるし、そういう人の前で「退屈で困ってるんです」なんて言ったらむしろ嫌がられそうだ。退屈という悩みは特定の解決すべき課題が存在しない。努力をしようにも、努力する方法も方向もわからず、エネルギーを向ける先がわからない。

しかし、幸いなことに君は退屈になることができている。大きな病気や怪我もなく、お金を稼ぐことや受験勉強に追われてもなく、不良に目をつけられているのでもイジメに苦しんでいるわけでも、戦争や犯罪に巻き込まれているわけでもない。退屈とは暇がある、つまり時間や心、身体のエネルギーに余裕があるということだ。そのような状態に僕たち一般市民がなれるまでに、どれほどの努力と犠牲と苦しみがあったかは歴史が教えてくれる。君は進む道を強制されておらず、だからこそ次の一歩を選ぶことができる。

退屈は自由へ向かうための飢えだ。暇なだけでは自由じゃない。自由はもっと生き生きとしたものだから。切羽詰まっておらず深呼吸ができる今こそが、人生を楽しむ最大の好機と言える。

心の底から楽しいことをしているときに退屈はいなくなる。君はどうしている時が楽しいだろう。それを見つけるための「暇」であり、「退屈」という飢えだ。まずはデータを集めてみてはどうだろう。食べ物を食べていくと好き嫌いがわかってくるように、色々なことを心で味わってみるんだ。

注意した方がいいのは、繰り返しやっていることが楽しいこととは限らないことだ(なんとなく見てしまうSNSやテレビや動画etc.)。今、君が退屈を感じているというのなら、普段あまり意識を向けていないことの方に心から楽しめることはあるかもしれない。しっかりと味わったことがないだけで。

味わうというのは意外にしっかりやっていない。スマホを見ながら食べるご飯と、匂いや味わいや歯触りを感じながら食べるご飯とでは違う体験になる。君が見たり聞いたり触ったり体験したりしていることの中にも、豊かな味わいを含んでいるものがすでにあるかもしれない。

もし今の生活の中に心がときめくものが無いのなら、その時は外に出てみるしかない。普段喋らない人と喋ってみる。違う道を通って帰ってみる。普段読まない本を読む。作品に触れる。美術館や水族館、動物園や音楽ライブに行ってみる。文章を書いてみる。絵を描いてみる。プログラミングをやってみる。楽器に触ってみる。新しいスポーツや踊りや武術を習ってみる。

部屋に彩りが足りず風通しがよくないなら、道端に咲いている花を飾ろう。窓を開けて風を入れよう。

日々の体験を味わいながら、少しずつ違うことを試してみる。その繰り返しの中でしか、自分自身が楽しみ続けられることは見つからない。他の人は正解を知らない。

楽しめることが見つかると、楽しみ方を探す旅が始まる。文章を書くのが好きであれば、何を書くのか、ジャンルはどうするか、媒体は、テーマは、設定は、毎日どのくらい書くのか、締切はあった方がいいのか、文体はどういう風になるのか、気持ちよく書き続けるにはどうしたらいいのか。

こんなに楽しい旅はない。旅行とは違う。新幹線や飛行機に乗ってビュンじゃない。一歩ずつ地面の感触や周囲の景色、街に鳴る音、漂う香りを味わいながら道を楽しむ「旅」だ。そのうち、退屈は「お腹が空いた」ぐらいの飢えになる。今みたいな飢餓状態とは違う健全な欲望だ。

だから退屈は消えてなくなるものではなく、生涯付き合っていくものだ。動物は生きることにエネルギーを過不足なく注ぐ。エネルギーを余らせて苦痛を感じるのは人間ぐらいだ。だから、余計なことをたくさんする。人と話したり、スポーツをしたり、踊ったり、何か作ったり、誰かの役に立とうとしたりする。僕たちはそうやって文化的に生きることではじめて、豊かな社会においてエネルギーを過不足なく使い尽くすことができる。

そうして、いつか死ぬ。退屈は「このまま死んでいっていいのか?」という心からの呼び声なのかもしれない。だったら、こう答えてみたらどうだろう。「いや、もっと楽しめるはずだ」と。

ーーここまで書いてみて、僕は『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎著)を再び読みたくなった。次は読み通した上で、もう一度退屈について書こうと思う。

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