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ノマド=不良的「雑さ」という生存戦略(11/4)

千葉雅也『現代思想入門』のドゥルーズの章で出てきた「ノマド」という存在があまりにも自分でびっくりした。

大きく言って、『千のプラトー』では、求心的な全体性は「国家」に対応し、その外部に「ノマド」(遊牧民)の世界が広がっているという世界史のひとつのビジョンが提示されます。ノマドのことは「戦争機械」とも呼ばれます。

千葉雅也『現代思想入門』、p76

ノマドは、自由に放っておかれたいからこそ、それを取り込んで組織化しようとする国家的・領土的力に対しては、激烈な攻撃性で対抗する。

同書、p.77

そう、まさにこんな感じだ。なんか全体的なものが自分を覆おうとしていると感じ取ったとき、自分の内部は激烈に抵抗し、それを攻撃する。菌を駆逐しようと白血球が働き、発熱する。

ドゥルーズ及びドゥルーズ+ガタリでは、ひとつの求心的な全体性から逃れる自由な関係を言う場面がいろいろあって、自由な関係が増殖するのがクリエイティブであると言うのと同時に、その関係は自由であるからこそ全体化されず、常に断片的でつくり替え可能であるということが強調されます。もしそれが全体化されてしまうと、新たな「内」をつくり出すことになってしまうからです。全体性から逃れていく動きは「逃走線」と呼ばれます。

同書、p.76

「新たな「内」」というのはすごいわかる。クリエイティブなものも「断片的でつくり替え可能」でなくなっていく「全体化」が起こり始めると、そこに「内」が生まれる。それは檻のような感触である。全体化というのはおそらく「たった1つのことに価値が置かれ、それを基準に全体が動いていくこと」のような理解でいる。そして、このような状況に陥るとそこに自由なクリエイティビティが入る余地がなくなる。あそびがないような感覚だ。だから、ノマドは「ひとつの求心的な全体性」から逃れる動きをとろうとする。

どうやら自分は、明確なターゲットとか数値目標とか絶対守るべきルールとか自分のスタイルとか、そういうのを決めつけてしまうのがすごい嫌みたいで、それは新たな「内」を誕生させてしまうからだろう。ゆえに、社会で良しとされているビジネスロジック的なものが馴染まない。馴染んできたら「なんか違う」と感じ始める。既存の秩序の外側で色々と新しいことをやってみたい、という強い欲望が存在する。

自由に生きるということにはそのような攻撃性が含まれていて、秩序に従わないで外で怪しい関係をつくっているやつら、と言うようなイメージがあるのです。戦争機械たるノマドは不良的、ヤンキー的なものです。

同書、p.77

そうそう、自分は優等生にさせられがちな部分があるが、いつもそれに従いきれず「抵抗」してきた節がある。思い返せばそうだ。だから、「偉いね」と言われるのがすごい嫌いだった。偉い、とは内側の言葉だから。

「不良」であるという自己認識。これが本当にしっくり来た。だから、高校生のとき不良っぽいファッションに憧れた時期があったんだな。あれは支配的な秩序から逃れ、「異物」としてしっくりくる格好だったのだろう。

しかし、よく言われるようにヤンキーや暴走族には強固な上下関係があって、それは「ミニ国家」でしかありません。ドゥルーズ+ガタリの戦争機械論においてはそれよりもっと流動的な群れがイメージされている。

同書、p77

この通りで、じゃあ不良集団でやっていけるかといえばそんなことはない。社会から逸脱した者同士で集まり、そこに序列やら団結やらが発生した途端、僕はその不良集団における「不良」となるだろう。だから、いわゆる不良にはなれない。なりきれない。

そして、過去の経験上、全体化は、自分の活動が既存の社会常識に収まってしまった時に感じやすい。たとえ自分が言い出しっぺで作り上げたコミュニティだろうと、そこに数値目標とか、すぐ効果が出る戦略とかを全面的に採用してしまうと、社会の常識とがっちり接続され「ミニ国家」に堕する。「国家」に尽くす「ミニ国家」である。たとえば、自分で新しいことをやりたいために会社を立ち上げたのに、いつの間にか賃労働者に成り果てているような状態である。自由からの疎外。秩序への疎外。

これを予防するには、常に警戒している必要がある。既存の秩序に全面的に迎合していないかどうか。もちろん常につっぱっていて、秩序の外に出ているだけではつまらない。それはただ「はぐれている」だけだ。そうではなく、秩序はあくまで乗りこなすもの、あるいはテキトーに乗っておくべきものぐらいの認識である。全面的に飲み込まれてしまうと、僕はそこから逃走を開始する。

これはもう意志の問題ではない。スピノザの「自由意志は存在しない」というのはよくわかる。ノマドは自由意志の権化のように見えるかもしれないが、ノマドでいないと息が苦しくなるのである。これは自分の本性から導かれる必然的なものだ(本性というのは絶対的な自分の性質よりは、かなりの状況において適応される自分の強い傾向ぐらいの解釈)。つまりは自分勝手だからノマドになっているのではなく、ただ自分の適した居場所に居ようとしているだけである。組織内にピッタリの適所がない、というタイプの適材適所。

以前の記事で書いた「雑」である意識の持ち方についても、ノマドは関係してくる。ノマドは「不良」であり、不良というのは基本雑である。「丁寧な暮らし」をしている不良というのは想像しにくい。丁寧さとは秩序を保ち続けるような意識を指すのであって、秩序が全体化する前に逃走するノマド=不良は、丁寧であり続けることで存在理由を失うのだ。雑さを捨てた不良は、「優等生」に回収される。

だから、自分は常にある程度のバランスで「雑さ」を保たなければならない。それはたまには「丁寧にやってみようかな」という「雑さ」も含めてである。雑さとは、秩序の全体化を止める、逃げる、距離をとる、という姿勢のこと。自分にとっての生存戦略である。

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