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「雑さ」の効能(11/2)

体調が良くなかったけど、今日の夜でようやく復活。

日記ってこんなんでいいのかな。最低この1文あればいいよね。と、自分のハードルを下げてみること。神経質になると苦しいばっかりなので、「雑でも最悪OKよな」という感じで生きること。これがテーマとなりそう。

雑になるってのは、丁寧にならない、ということで結構神経症的な自分には難しいことだ。人を慮り、自分の決めたことを守り、なるべく向上しようと細部にこだわる。これらは普通良いとされてることだ。しかし、脱構築してみる。二項対立した時の反対側に思いを馳せてみて、これらが本当にいいことか判断を留保してみる。

丁寧に暮らす。良いことのように思える。丁寧な人、丁寧な仕事ぶり、丁寧な生活。丁寧。ていねい。

だが、丁寧とは何だろう。辞書には「細かいところまで気を配ること。注意深く入念にすること。また、そのさま。」(デジタル大辞泉、小学館)とある。注意深くないといけないのだ。つまり「丁寧に暮らす」とは「注意深く暮らす」ということだ。常に注意深く、ということは何かに緊張感のある意識を向けた暮らし、ということだ。

これって結構苦しくないか?もっと楽に生きていこうぜ、おれ。前回の日記に理想のタイムスケジュール的なものを書いた。それを発見したのはよいし、最高な流れだったのも間違いないけど、だからといって常にそれがいいかはわからない。たまにはプログラミングをずっとやりたい日もあれば、読書しまくりたい日もある。調子のよくない日はグータラベッドの上でYouTube見たりしたい日もあるかもしれない。気持ちがのってずっと書き物をするかもしれない。やることは同じだけど、順番が入れ替わることだって。

常に、丁寧に、自分の決めたことを守らなくてもいいってことなのではないか。「今の自分」が「過去の自分」の決めたことを渋々従って(そっちの方が楽しい時はそうすればいいのだが)、「過去の自分」のせいで「今の自分」のノリを無効化するだけだったら、それは過去への疎外だ。自分に対して不誠実ということだ。

そもそも理想のスケジュールは「決めたこと」ではない。発見したことだ。それをベースにすると安定するというようなものだ。基本がわかったのなら、それをカスタマイズしてもいいはずだ。特に自分は柔軟型の性格類型なのだから、一概に守り続ける方がストレスである。

理想スケジュールが見つかった直後に体調悪化してリズムが崩れて、むしろ早い段階に気づけたのはよかった点かもしれない。

丁寧というのは、細かいところにまで気を配っていることだった。多分、そういうことができるほど余裕のあるような暮らし、ということで「丁寧な暮らし」はポジティブなワードなのだ。あるいは、しっかりと自分をコントロールできている、という点で。

しかし、全てを自分のコントロール化に置こうとする意識こそ、現代の症候ではなかったか。コントロールしようとすると規制ばかりになり、息苦しくなる。ルールの内と外が明確に分けられ、その豊かなグレーゾーンにあるものまで排除されてしまう。丁寧の外にいる自分は、もっとオモロいかもしれないのだ。

丁寧とは気を配ること。では、何に対して気を配るのか。人は全ての事象に対して細かく気を配ることはできない。リソースが有限である。多分、気を配るべきことに気を配っているのだ。自分がこだわりたいと欲望していることかもしれないし、そうしないと仕事の質が落ちてしまうと感じることかもしれない。人の享楽的部分の顕れでもあるといえよう。ならば、どこに気を配るかというのはその人の本質を表していると言えなくもないか。

いずれにせよ「気を配るべきこと」は、丁寧であり続ける限り固定されてしまう。気を配る対象が変わってゆかない。他人に気を配り続ける。自分の決めたルールに適合しているか気を配り続ける。制作物やパフォーマンスにミスがないか気を配り続ける。

しかし、そもそも気を配っている対象が今の自分にとって本当に気を配るほどのものなのか。他人でなく、本当は何かを抱えている自分自身に気を配るべきでないのか。過去の自分が決めたルールでなく、今の自分の感情や直観に気を配った方がいいのではないか。現在のスタイルで向上を目指すために細部に気を配るより、スタイル自体の変更を試みることに気を配った方が良いのではないか。

そんなとき、今まで気を配っていたところに意識が向かなくなるので、その部分においてはパフォーマンスが落ちるだろう。しかし、その部分的なパフォーマンス低下を受け入れなければ、変化は起きない。意識を緩める。その分、見えなかったところに目を向ける、耳を傾けることができるようになる。

これまでと同じ対象に注意することをやめなければ、注意する対象は変えられない。まずは注意することを止める。そこから自分の空は破かれる。注意深くならないこと。すなわち「雑になる」ということ。雑になる自分を受け入れる。神経症的傾向が強い人ほど、自分の同一性を保とうとする。つまりは真面目なのだ。

雑になる。不真面目になる。気楽にいく。ユーモラスになる。

だから、日記といいつつ何が起きたかについての具体的事項がほとんど書かれていないこの記事もアリなのだ。具体的事項に注意深くならないからこそ、日記というさほどリソースを割けない文章において、上のような(日記の割に)しっかり目の考察をすることができた。

雑の効能である。

(加筆)

丁寧さが「これはこうでないといけない」と同一性を保つ神経症的意識なのだとしら、雑さは「別にこうでなくてもいいでしょ」と差異をそのままにしておく分裂症的意識と言えるかもしれない。ドゥルーズ曰く差異は同一性に先立つから、雑が基本で、丁寧さはたまに発揮される例外的事象ぐらいのバランスがいいのではないか。

基本雑にしていて、いつの間にか意識に秩序が生まれ、丁寧に「なってしまっている」ぐらいがいいのではないか。そうやって習慣化される丁寧さこそ、自然な丁寧さなのではないか。

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