大阪市立美術館①-地域のお宝さがし-44

所在地:〒543-00636 大阪市天王寺区茶臼山町1-82

■美術館以前■
 大阪市の中央部に位置する上町台地南部の茶臼山に、大阪市立美術館と慶沢園があります。美術館は、本瓦葺きの「近代日本式」(注1)の建築で、緑に囲まれた慶沢園は、野鳥も多く、閑静な庭園で知られています(図1)。ここに、住友家が明治28年(1895)に別邸、大正9年(1920)に本邸を完成させましたが、同10年末、本邸の敷地と庭園(図2~3)を大阪市に寄付し、大正14年に神戸の住吉に本邸を移します。その理由として、本邸が完成した大正9年頃は、労働争議や米騒動などが多発して社会不安が高まり、住友家も危機感を感じたようです。茶臼山が住み心地のよい場所ではなくなったようです(注2)。

図1

図1 大阪市立美術館(背面)・慶沢園

図2

図2 住友家茶臼山本邸

図3

図3 茶臼山本邸庭園

■美術館の建設決議■
 大阪は、明治時代初期の銀目停止や蔵屋敷の廃止などで、経済的に大きく衰退しましたが、その後、紡績業やガラス工業などの発展によって商業・交通などが発達し、大きく発展します。
 大正9年3月30日には、「御下賜金参千圓に基金百萬圓を加えて」美術館の建設が決議されました(注3)。この背景には、市の発展により財政が豊になった、生活の向上により市民に「美術を鑑賞し愛好し得るだけの余裕が出来て来た」ことなどがありました(注3)。大阪市は美術館の建設地を探すことになります。

注1)藤岡重一「大阪市美術館に就いて」『建築と社会』(1934年8月号)。
注2)坂本勝比古『日本の建築[明治大正昭和]5商都のデザイン』(三省堂、1980年)。
注3)藤岡重一「大阪市立美術館」『建築と社会』(1936年6号)。なお、同論文で は、美術館の様式を「日本趣味ヲ基調トセル近代式」としている。

■美術館の設計はコンペで■
 住友家が、大正10年末に本邸の敷地と庭園を大阪市に寄付したとすると、設計の進捗状況などと時間的な齟齬が生じると思われます。その点を考えてみましょう。

●募集要項●
 設計案は、コンペ(設計競技)で公募されることになり、『建築雑誌』(1920年11月号)に「大阪市美術館新築設計図案懸賞募集」(以下、募集規定)が発表されました(締切は1921年1月31日)。この募集規定に対し、建築学会が敷地の不確などを指摘し、大阪市長に照会しています。しかし、募集規定第20条には、「大阪市内高燥な地域とす」、建物は「西方を正面とす」と明記され、さらに、「別紙『ラインドローイング』(線図)に其大要を示す」として、平面図(1・2・地階)と縦・横断面図が提示されていますから、建築学会の指摘は、所在地の不記載と考えられます。
 これらから、①所在地は記載されていないが、募集要項が作成された時点で、敷地は確定されていたと推察されます。②平面・断面図が提示されていることから、このコンペは外観の造形に重点が置かれていたことが窺われます。

●寄付までの経緯●
 寄付までの経緯を、推察も含めて時系列に並べると、①大正9年3月末、大阪市が美術館建設を決議し、美術館建設地を探す。②大正9年、住友本邸が完成するが、社会不安が茶臼山への転居を躊躇させる。③本邸完成後(9月初旬までに)、住友家が、敷地を公園にしてその一部に美術館を建てる、庭園を現状のまま引き渡すことを条件に、大阪市に寄付を打診。④大阪市は寄付を受諾し、その条件を考慮して設計案の公募を決定する。⑤『建築雑誌』11月号に募集要項を発表、となるのではないでしょうか。ただし、当該号の雑誌が前月発行とすると、既述のように、遅くとも9月初旬には募集規定を建築学会に提出する必要があると思われます。
 これらから、住友家は、本邸完成以前から大阪市の美術館建設決議を知っており、諸般の事情から寄付を決断し、水面下で申し出を行ったのではないか。そして、跡地を公園にする条件から、大阪市が設計案の公募を決定したと推察されます。募集規定作成の際に、寄付を公表できない住友側の事情から、敷地条件と建物位置のみを記載したと思われます。その間、住友家では、新たな本邸の候補地探しなど、様々な問題に対処し、それが落着した10年末に正式に寄付を公表し、新聞各紙も大きく報道した(注4)と考えられます。

●入選者●
 コンペの応募総数137点から、武田五一・片岡安・澤村専太郎ら5名の審査員(注5)によって、1等前田健二郎(図4~6)(注6)、2等岡本馨、3等権藤要が選抜され、入選作品は2月26~28日まで中央公会堂で一般公開されました(注5)。

図4

図4 平面図

図5

図5 立面図

図6

図6 透視図

 事前に提示された平面図と1等入選案を比較すると、階段の位置などに若干の相違が見られるものの、提示平面をほぼ正確に踏襲していることが分かります。外観は、簡略化された様式建築で、中央部を高層とし、垂直線が強調されたアールデコ風にデザインされています。

注4)前掲2)坂本勝比古『日本の建築[明治大正昭和]5商都のデザイン』。ちなみに、住友家は、明治37年に中之島図書館本館(現在の中央部分・1号書庫)を寄付し、大正11年に同家の寄付により左右の両翼部が増築されている。
注5)『建築雑誌』(1921年3月号)
注6)平面・立面図は『建築と社会』(1921年3月号)、透視図は同4月号より転載。

 今回は、大阪市立美術館建設以前の状況、建設の経緯、設計案の公募などについて紹介しました。次回は、1等入選者前田健二郎、当時のコンペの実施方法などについてみてみましょう。

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