大阪市立美術館②-地域のお宝さがし-45

所在地:〒543-00636 大阪市天王寺区茶臼山町1-82

■戦前のコンペ■
 戦前のコンペは、募集規定に、平面図や断面図の提示や「ゴシック様式」などの指定が行われ、実質的に「外観意匠」の競技を意味し、審査では、透視図の表現が設計技術と同等以上に評価されていました。さらに、入選案の不実施、入選案を第三者が修正して実施、入選案を参考にした第三者による設計、入選者と異なる第三者による新たな設計も行われています。(注1)

注1)近江榮『建築設計競技』(鹿島出版会、1986年)。コンペに関する記載は、断りのない場合は同書による。

■建築家前田健二郎■
●経歴●
 大阪市美術館コンペに1等入選した前田健二郎は、明治25年(1892)生まれ、大正5年(1916)東京美術学校(現東京芸術大学、以下、美校)を卒業後、逓信省(営繕課)に入省、同8年に第一銀行に転じ(注2)、昭和12年(1937)に前田建築事務所を開設しました(注3)。これから、第一銀行在職中、29歳で1等入選したことが分かります。
 美術館の建設は、大正12年の関東大震災(以下、震災)により、不急の事業として建設が頓挫します(注4)。前田は、その後も応募を続け、多数のコンペに入選し、「コンペの前健さん」の異名をとりますが、その発端が美術館のコンペでした。

注2)ウィキペディア「前田健二郎」
注3)近江榮「前田健二郎」(『日本の建築家』所収、『新建築』1981年)
注4)富士岡重一「大阪市立美術館」(『建築と社会』1936年11月号)

●入選コンペ●
 前田の入選回数は判明するだけで9回、そのうち1等(下線部)が5回と、全体の約56%を占めています。
①大正10年:大阪市美術館(以下、美術館)1等入選(図1、注5)

図1

図1美術館透視図

②大正11年:大阪府庁・府会議堂佳作2席入選
③大正12年2月:神戸市公会堂(以下、公会堂)、岡田捷五郎と共同で1等入選(図2・3、注6)。岡田捷五郎は、岡田信一郎の実弟で、大正9年東京美術学校を卒業、兄のもとで明治生命館の設計を手伝ったのち母校に戻り、後進の指導にあたります(41回目琵琶湖ホテル参照)。

図2

図2公会堂透視図

図3

図3公会堂側面図

④大正12年7月:早稲田大学故大隈総長記念大講堂(現大隈記念講堂、以下、大隈講堂)、岡田捷五郎と共同で1等入選(図4、注7)・佳作4席入選

図4

図4大隈講堂透視図

⑤大正13年の大連駅本家、岡田と共同で3等2席入選(図5・6、注8)

図5

図5大連駅本家透視図

図6

図6大連駅本家東南立面図

⑥大正14年の関東大震災記念建築物(現東京都慰霊堂、以下、慰霊堂)1等入選(図7)

図7

図7慰霊堂透視図

⑦昭和5年大礼記念京都美術館(現京都市京セラ美術館、以下、京都美術館)1等入選入選(図8、注9)

図8

図8京都美術館透視図

⑧昭和6年東京帝室博物館(現東京国立博物館、以下博物館)4等入選
⑨昭和6年軍人会館(現九段会館)3等3席入選

注5)『建築と社会』1921年4月号より転載。
注6)『神戸まぼろしの公会堂コンペ再現!展』図録(2019年)より転載。
注7)前掲1)近江榮『建築設計競技』より転載。図7も同じ。
注8)『大連駅懸賞設計当選図案帖』(満州建築協会、1925年)より転載。
注9)『建築と社会』1934年8月号より転載。

■実現ならず■
 前田は、単独もしくは岡田と共同で、数多くのコンペに1等入選しますが、大阪市美術館・神戸市公会堂(注10)はともに震災の影響で不実施、大隈講堂は、「1等案はゴシック様式なるべしという大学側の意向と合わず」との理由で不実施、佐藤功一・佐藤武夫が実施設計(図9)、慰霊堂は、伊藤忠太が新たに実施設計(図10)というように、実現される機会が少なく、残念に思ったことでしょう。その中で、唯一実施されたのが京都美術館です。

図9

図9大隈講堂

図10

図10慰霊堂

注10)神木哲男「大正・昭和戦前期の歴史過程」(前掲6)『図録』所収)

■和風の意匠■
 京都美術館は、前田の入選作では初めての和風の意匠ですが、それは、募集規定の「日本趣味を基調とすること」に従ったものでしょう。日本趣味のきっかけとなったコンペは、神奈川県庁舎(大正15年)で、以後、増加します。鉄筋コンクリート造でありながら、屋根に瓦を葺くなどの伝統的な意匠を施した、いわゆる「帝冠様式」の建築は、日本ファシズムに通じると評される場合があります。
 日本趣味を求めた博物館のコンペにおいて、前川國男が落選を覚悟で、条件違反の「モダニズム」による提案をしたことは有名ですが、一方、大隈講堂の前田・岡田の作品のように、指定の様式以外でも1等に入選することもありました。
 前田をはじめ多くの建築家がコンペに応募したのは、日本ファシズムに荷担するというより、様々な条件を克服して設計する、コンペの醍醐味に惹かれたからではないでしょうか。

■閑話休題■
ところで、「コンペの前健さん」(図11、注11)の異名が気になります。

図11

図11前田健二郎

 前田が学んだ美校(5年制・図案科)の卒業生は、多くのコンペで活躍しました。そこで、カリキュラムを見ると、5年間における週当たりの総授業時間は196時間、そのうち各学年の「絵画」の総時数は64時間で、全体の約33%を占めています。入学生は10名(明治40年頃)で、建築志望者は2年から工芸図案と建築図案に分かれるので、さらに少なくなります。そのうえ、川井玉章(日本画)や岡田三郎助(洋画)ら、著名な画家が学生を指導したのですから(注12)、コンペで重要視された透視図や図面の表現技術に卓越したことは容易に想像されます。
 美校の教育を背景に、前田の努力が「コンペの前健さん」を引き寄せたのでしょうが、それは異名ではなく、多彩な様式を用いて多くの1等入選を果たした、前田に対する尊称であったと思われます。

注11)前掲3)『日本の建築家』(『新建築』1981年)より転載。
注12)『近代日本建築学発達史』(丸善、1972年)

次回は、実施された大阪市立美術館をみてみましょう。

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