住吉大社神宮寺-地域のお宝さがし-55

所在地 〒558-0045 大阪市住吉区住吉2-9-89

■住吉大社神宮寺■
 近代以前、住吉大社(以下、大社)に存在した神宮寺の位置(図1)は、前回(54回)の配置図に示しておきました。

図1

図1 神宮寺跡地碑

 神宮寺の創建は天平宝字2年(758)、本尊を新羅渡来の薬師如来としたため、「新羅寺」と称されました(注1)。創建以来、長い歴史がありますが、ここでは近世についてみます。
 慶長11年(1606)、豊臣秀頼の命により住吉大社が造営されます。神宮寺では、翌12年に、「築地」・「南ノ大門」・「東ノ門」・「西塔」・「両三昧堂」・「東塔」・「東西両僧坊」「今主ノ社」・「石舞台」・「楽屋」が造営されますが、大坂夏の陣(慶長20年=元和元年=1615)により伽藍が焼亡し、元和4年、徳川秀忠の命により再興されます(注2)。以降、承応4年(=明暦元年、1655)・宝永6年(1709、注3)・宝暦8年(1758)に造営され、享和2年(1802)の火災では焼亡を免れ(注4)、明治維新に至ります。
 つまり、元和4年に再興された諸堂は、修覆などを施されながら、幕末まで継承されてきたと考えられます。

注1)『住吉松葉大記(下)』所収「寺院ノ部十七」(p78、『大阪市史史料第63輯』2004年)。なお、『摂津名所図会』(柳原書店、1996年)では、「天平二年」(730)の創建とある。
注2)前掲1)『住吉松葉大記(下)』所収「造営部二十一」(p161)
注3)『摂津名所図会大成其之二』所収「巻之七」(p26)では、「住吉大神社・・宝永五年改造・・」とあるが、『浪速叢書其三』所収「摂陽奇観巻之二十四ノ上』(p32)は「宝永六己丑 三月住吉社御修復」、『住吉大社歴史的建造物調査報告書(本文編)』(p17)も宝永6年とする。
注4)『浪速叢書其五』所収「摂陽奇観巻之四十三」(p40)に、「享和二壬戌 一、十月廿八日夜 住吉火・・焼ケ残候分、誦経坊舎、神宮寺、五大力、大海神、おくの天神・・」とある。

■境内の様相■
●諸堂の位置と名称●
 図2は、慶長12年から元禄15年(1702)までの諸堂の位置です(注5)。図中の「3段書の堂名称」によると、上段が慶長12年、中段が承応2年(注6)、下段が元禄15年の名称です。上段の「-」は、史料に無記載のもの、記載の名称は、慶長12年以降、継続したものと思われます(注7)。これらを、表1にまとめました。

図2 20200715

図2 神宮寺配置図(慶長12~元禄15)

表1 神宮寺の施設の変遷

画像3

注5)「摂津住吉神宮寺東西大塔・阿波切幡寺大塔」所収「住吉神宮寺伽藍配置図2」を転載、加筆。既述の記載内容は変更していない。元和4年再興の諸堂の位置は不明であるが、名称から、焼亡前の諸堂が復興されたと推察される。
注6)中段の史料「摂津国住吉社絵図」は筆者未見のため、図2の記載に従う。
注7)史料に名称が記されていないのは、修覆などの必要がなかったものと推察される。

●名称と位置の変化●
 図2と表1のA~C欄が対応しています。C欄をもとに遡ってみると、「本堂」(薬師如来)・「常行三昧堂」(阿弥陀如来)・「法華三昧堂」(釈迦如来)は、B欄では「薬師堂」・「阿弥陀堂」・「釈迦堂」、A欄では無記載・「三昧堂」となっています。この二つの「三昧堂」は、「薬師堂」左右の瓦葺きの廊下で連結された「荷い堂」(にないどう)形式(図3)であることから、A欄の無記載は、「薬師堂」であったと考えられます(注8)。これら三堂の前面に、「東塔」・「西塔」が配されていることから、三堂と東・西両塔が、神宮寺の主要な堂塔と思われます。

図3

図3 荷い堂の例(延暦寺常行堂・法華堂)

 このように見ると、A欄に「-」と記された諸堂は、慶長12年の造営時に存在したため、造営もしくは修覆の対象とならなかったと推察されます。また、A欄・B欄に「-」が記された「札所」・「番所」は、承応2年以降に設けられたと考えられます。他の名称には、大きな変化はありません。

注8)慶長12年の名称が不明であるため、承応2年時の「薬師堂」とした。

■施設位置の変遷■
●慶長12年~明和8年●
 図2の境内の東部では、「高蔵」・「経蔵礎石」・「浴室」がD欄では確認できず、「求聞持堂」の北部に位置する「着座所」は、D欄以後には確認できないことから、ともに取り壊されたと考えられます。反面、「浴室」付近に描かれた「五大力」は、D欄すなわち、明和8年までに建立されたと考えられます。
境内の西部では、北西部の「石舞台」が西面の中央部付近へ移り、西面中央部の「鐘楼」が「今主社」付近へ移り、「今主社」は北西部の「石舞台」の跡地へ移り(注9)、前面に鳥居が設けられています。一方、西面中央部の「西小門」は、D欄では北西部に描かれていますが、以後も西面中央部に描かれています。
 これらから、神宮寺の主要な堂塔などの位置に変化はなく、周辺の諸堂の配置に変化があることが分かります。つまり神宮寺では、元禄15年から明和8年の間に、既存の諸堂を取り壊して新しい堂を建立し、周辺の諸堂を移転して伽藍が整備されたと考えられます。なお、これらの変遷を図2に青書で示しました。また赤字は、寛政7年(1795)に見られない施設です。

注9)「住吉細見図」の北西隅の社は、「国■やしろ」と見えるが、『住吉名勝図会』では、これを「今主社」とし、前面に鳥居を建てている。

●明和8年~寛政7年●
 D欄とE欄の諸堂の位置を比較すると(図2・4)、異なるのは、図4の北面の「西僧坊」前面に門が設けられ、そこから西面に築地が回ります。同様に、「食堂」も前面から西面に築地塀が設けられたことです。「僧坊」・「食堂」に、門や築地を設けることで、社僧の生活空間が確保され、「北小門」からの動線を明確にしたものと推察されます。

図4

図4 神宮寺配置図(寛政7年)

 このように見ると、神宮寺の境内は、南面中央部の「南大門」を入ると、正面は、主要な堂塔が配された参詣の空間、東部は、「求聞持堂」・「五大力」などが配された法要の空間、西部は、「楽所」・「舞台」・「今主社」が配された参詣と儀式の空間、北部は、東西の「僧坊」などが配された社僧の空間で構成され、参詣者の空間と社僧の生活空間が明確になったことが窺われます。

■さらなる疑問が・・■ 再興?
 切幡寺大塔をきっかけに、住吉大社神宮寺を見ていますが、大社を描いた屏風を見て、疑問がでてきました。次回は、これらについて見て行きたいと思います。

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