建築家小笠原祥光の仕事⑧ -地域のお宝さがし-90

■商業建築■
 今回紹介する伊藤萬商店(昭和8年竣工、後掲図6)(注1)は、小笠原の設計活動の中期に位置し、その円熟した意匠と規模からも、小笠原の代表作品とよべるものです。

注1)様式は近世復興式(『復刻版近代建築画譜』2007年)

●伊藤萬商店●
 伊藤萬商店は、昭和6年12月に起工しますが、これ以前の設計段階における外観透視図(5点)が残されています。これらの透視図をもとに、最終の立面が決まるまでの、意匠の変遷を見ていくことにしましょう。
1)A案(図1、昭和6年8月20日)

 A案は、正面の基壇上部の壁面を垂直方向に3分割して4本のジャイアントオーダーが設けられ、側面は垂直方向に3分割し、両端の壁面には各階ごとに開口部が設けられ、中央部壁面は6分割してオーダーを想起させる壁面構成とし、垂直性を強調し、最上層にブラケットで支えられたバルコニーと庇が設けられています。

2)B案(図2、昭和6年8月20日)

 B案は、正面に4本のジャイアントオーダーが設けられ、その間に頂部を半円アーチとした縦長の開口部が3つ配され、内部をトレサリーでさらに3分割して垂直性が強調されています。その上部には丸窓、ブラケットに支えられた頂部を半円アーチとした開口部、7層目には半円アーチのアーケード、さらにコーニスにはロンバルディアバンドが施された軽快なロマネスク様式です。この案には、「少シク派手過キルトシテ採用セラレス」との小笠原のメモが残されており、自信作であったことが窺われます。

3)C案(図3、年月日不明)

 C案は、A・B案のルネッサンス様式やロマネスク様式とは対照的に、平坦な壁面を水平線で区切って変化を付けたセセッション風の意匠です。正面に2~5層目にかけて疑似四心アーチが設けられていますが、その上部に設けられた水平窓にアーチ上部が押さえられ、やや圧迫感が感じられます。

4)D案(図4、昭和6年8月27日)

 D案は、オーダーなどの装飾がなくなり、開口部上部やコーニスに装飾が施されているものの、全体に壁面が平滑な意匠となり、堅実ではあるがやや硬さが感じられます。

5)E案(図5、昭和6年9月9日)

 E案は、基壇のアーチや側面の開口部などの構成はD案を継承し、6層目のコーニスを全体に回さず、その上部にアーケードを設けることにより軽快さが醸し出されています。この案には、「設計図決定ノ分」とのメモが残されています。
 5案のうち、A・B・D・E案には右下のスタンプに作成年月日が記されています。C案にもスタンプの押印が見られますが、写真には写っておらず、年月日が不明です。そこで作成年月日を、小笠原の設計方針から推測します。
 小笠原は、「よく施主の意味するところを体することで忠実にしかも細心の注意と親切を以てその衝に当たることであって、此の意味に於いては恐らく同氏の右に出づるものはない」と評されています(注2)。これから、装飾系意匠のA案(ルネッサンス様式)・B案(ロマネスク様式)、と非装飾系意匠のC案が同時に提示され、施主の意向を受け、その後にD・E案が提案されたものと考えられることから、C案も、A・B案と同じ時期、すなわち昭和6年8月20日ころに作成されたと推測されます。
 5案とも、隅角部を正面とするのが共通しており、さらに2層目までを基壇的に扱う手法で外観をまとめることで、この地域(東区本町4-46[当時])におけるランドマークを意識して設計されたと推測されます。

注2)『(株)吉田鹿之助商店新築工事画報』(日刊土木建築時報社、1936年3             月)

実施された外観と比較してみましょう。

●外観●(図6、昭和8年7月竣工)

 実施された外観は、正面の壁面をさらに立ち上げ、E案の7層目にアーチ窓を長方形窓に、その上部のブラケットに支持された長方形窓を1つから3つに増し、さらにその上部に2つの長方形窓を設けるなど、E案よりも正面性が強調されています。

●内部●
1)1階入口ホール・階段廻り(図7)

 図7は、1階入口ホール・階段廻りです。床の市松模様、親柱に飾り壺が置かれた曲線の階段、その上部の半円アーチ、付け柱の頂部のオーダー、梁下面の装飾など、シンプルな外観に反して、装飾密度の高い空間になっています。

2)7階大講演会場(図8)

 図8は、7階大講演会場です。正面舞台の装飾された額縁や両脇のフルーティング(縦溝)が施されたコンポジット式オーダーと上部のアーキトレーブやコーニスの構成、側面の角柱オーダー、湾曲した軽快な梁、上部の小梁で構成された光天井などによる空間は、劇場内部を思わせる装飾豊かな空間になっています。

3)客用食堂・休憩室(図9)

 図9は、客用食堂・休憩室です。中央部の奥が食堂への入口、その前面のロビー(休憩室)の様子と思われます。右手に茶室の外観を設え、大梁で区切られた天井面を格天井とし、落ち着いた空間が構成されています(注3)。
 伊藤萬商店は、敗戦後、大阪の「代表的なビル」(注4)の1つとして、綿業開館・大阪倶楽部などとともに、連合軍に全館接収されたことからも、その評価が窺われます。

注3)図6~9は、『近代建築画譜』に掲載された写真。
注4)『大阪建物株式会社五十年史』(1977年)

■閑話休題■
 小笠原は、様式建築・セセッション・和風建築など、様々な意匠の作品を実施や計画しましたが、彼にとっては、意匠密度の高い古典系の近世復興式も、平滑な壁面構成のセセッションやインターナショナルスタイルなどの近代主義も、意匠の手法の1つであったと思われます。そのため、彼の作品について、密度の高い意匠(注5)を行う建築家、「ファサードの平面的装飾性」に特徴がある建築家(注6)という評価がなされますが、それはとりもなおさず、小笠原の意匠の守備範囲の広さを示しているといえそうです。
 筆者としては、吉原商店(第88回)や伊藤萬商店B案のロマネスク様式、カッフェーゴンドラのアール・デコ(第88回)、河盛商店商店(第89回)のセセッション風の意匠が好みだったのではと、憶測しています。
図10は、西洋・近代建築の変遷の概略図です(第50回)。

 これに、小笠原の意匠を照合すると、「近世復興式」を基本に、近代の意匠を取入れながら、「近世式」を少し過ぎ、「モダニズム」の一歩手前に位置づけられる建築家と考えています。

注5)『近代建築ガイドブック』(福田晴虔他、鹿島出版会、1984年)
注6)石田潤一郎「大阪建築家列伝」(『SPASE MODULATOR』50号所収、日         本板硝子、1977年)


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