見出し画像

「焼き尽くす献げ物」の思い出

主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちのうちのだれかが、家畜の献げ物を主にささげるときは、牛、または羊を献げ物としなさい。牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。奉納者は主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。奉納者がその牛を主の御前で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を臨在の幕屋の入り口にある祭壇の四つの側面に注ぎかけてささげる。奉納者が献げ物とする牛の皮をはぎ、その体を各部に分割すると、祭司アロンの子らは祭壇に薪を整えて並べ、火をつけてから、分割した各部を、頭と脂肪と共に祭壇の燃えている薪の上に置く。奉納者が内臓と四肢を水で洗うと、祭司はその全部を祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。
旧約聖書 レビ記1章1-9節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員として働く、牧師です。

私は日頃自転車通勤をしているのですが、半年前くらいでしたか、通勤ルート上に新しい焼き肉店ができました。
出勤時は大丈夫なのですが、退勤時が問題。めちゃくちゃいいにおいがする。これはやばい……。
「は~、いいにおい……。焼き肉食べたい……。お腹空いたよ~~」と思わされつつ、しゃこしゃこ自転車をこいで帰る日々です。

実は聖書の中に「焼き肉」の話はいっぱい出てきます。
「焼き肉」というと平べったく言い過ぎかもしれませんが、神さまへの捧げものとして「いけにえ」の動物を焼く……という話です。
私が使用している「新共同訳」と言われる日本語訳聖書では、「焼き尽くす献げ物」という言葉で記されています。

いけにえの動物をしかるべき手順にのっとって、火をつけた薪の上に並べ、全部を燃やして煙にする。これが「燃やして主にささげる宥めの香り」だということです。
神さまも焼き肉が好きなのかな~。
一部の人だけかもしれないけれど、「クリスチャンあるある」、「クリスチャンギャグ」とでも言うべきネタみたいなのがあったりします。
私の周囲では、焼き肉をする時つい「焼き尽くす献げ物や~」という言葉が口に出てしまいます。
神さまも、直接は食べられないけどにおいだけ楽しんで味わっておられるのだとしたら、最近の帰り道の私と同じだなぁ、なんて思います。

冒頭に引用したのは旧約聖書の「レビ記」という部分です。レビ記は、「律法」と呼ばれるユダヤ教の宗教的な掟が細々記されている部分なので、ドラマ性はほぼありません。物語として読む分にはなーんにも面白くない(笑) でも、考古学的に(?)「へー、当時はこんなことしてたのか」「昔の人はこういうものを大事にしてたのかな」「なんでこんな細かい掟を作ったのかな」なんていう想像力を働かせながら読むと、興味深くはある書物です。

私が学生の頃お世話になっていた教会では、週に一回、平日の夜に祈祷会があって、「聖書のどれかの書物を1章分ずつ、順番にみんなで読み進めていく」ということをしていました。「来週の8章は○○さん、じゃあその次の9章は再来週に◇◇さんが担当してくださいね」と、参加者同士輪番で発題者を決めて、その箇所について調べたこと、考えたこと、そこから思い巡らしたことなどを分かち合う時間でした。
年齢も立場も異なる信徒同士が、同じ聖書箇所をそれぞれの視点で読んで感想を語り合うというのは、若く信仰歴の浅かった当時の私にとって大変良い学びになったのでした。

その祈祷会である時取り上げられたのがこの「レビ記」でした。
「自分一人で読むにはしんどい箇所だからこそ、みんなで読むと何かしら気付きもあったりするのでは?」と、果敢にチャレンジすることにしたのです。
レビ記は全部で27章まであります。基本的に1回につき1章ずつ読み進めていましたから、約半年かけて読んだことになります。いやー、半年もレビ記を読み続けるなんて、よくやったね、皆さん(笑)

もうすぐ読み終えられる……というゴールの見えてきたある日、年長の信徒さんが「このレビ記を読み終えたら、『焼き尽くす献げ物』を食べにいきましょう。お若い皆さんもよく頑張ったから、私がごちそうします」と言って、「焼き肉打ち上げ会」を提案してくださいました。
お金の無かった学生の私は「やったー! 焼き肉!」と喜んで、残り数章を読み進めるのが一層楽しみになったのを覚えています。
打ち上げ当日は、「レビ記を私たちは読み切ったぞ」という達成感と、継続して参加していた者同士の連帯感で、焼き肉が一層おいしく感じられたものでした。

「旧約聖書って読んでいてもつまらない」とよく言われますし、それは本当にその通りだと思います。ドラマ性の乏しい「レビ記」みたいな部分もあれば、ドラマ性はあっても今の私たちの感覚とはずれていてしっくり腑に落ちない話も多くあるからです。
でも、聖書というのは現代の私たちが読む小説などとは違って、「よく分かんないな」と思いながらも繰り返しスルメをしがむ(これって関西弁ですかね? くりかえし噛んで味わうイメージです(笑))ように読むのも一つの味わい方だし、かつての私のように「難しいねぇ、よく分かんないねぇ」と言いながら「人と一緒に読む」というのも醍醐味なのだと思います。

「焼き尽くす献げ物」と称して若い貧乏学生に焼き肉をご馳走してくださったあの大先輩信徒の方も、すでに神さまの御許に召されました。
焼き肉のにおいをかぎながら帰る道すがら、あの懐かしい祈祷会のことを思い出し、いろんな人に支えられ、養われて、「信仰の血肉」を形作ってもらってきた今の自分を振り返るのでした。


いいなと思ったら応援しよう!