見出し画像

「ここにあなたが居ないと思うことが淋しい」のなら、「共にいる」と信じよう。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
新約聖書 ヨハネによる福音書 16章33節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

我が「最愛(いわゆる「推し」のことね)」がね、なんとね、ソロツアーをするんですって。


ソロツアー。ソロでワールドツアー。
見えます? 画像の一番下。「JAPAN」。じゃぱんっすよ。いるぼんっすよ。日本に来ちゃいますよ。日本に来て歌うんですよ、一人で。

号泣。

これが先日夜中に発表されたせいで、そこから数日はなんかもう心の置き所が無い感じで過ごしておりました。
日本なんか日程も出てないしね。楽しみにしたいんだけど、どう楽しみにして備えれば良いのかすら分からず。

何より、「行きたい」のはやまやまだけど、「行けないんじゃないか」と思うと、もうそれだけで胸が潰れそうで。
チケットは取れるのか、仕事は外せるのか、自分や家族の健康は守られるのか。
考えればキリがないんですけど、「だめかもしれない」「だめになる可能性がゼロではない」と考えただけで、もう絶望を先取りしてしまって、ほんとだめ。(ダメしか言ってない)(自虐後ろ向きクドウの真骨頂)

まずは大喜びすればいいし、「最愛」氏の活躍を心から祝福したいし、その気持ちも嘘ではなくちゃんと持ってるんだけど、とにかくもう「行けないかもしれない」が胸の奥底にぐっさり突き刺さってしまってじくじく痛いのです。

そうしたら、急に往年の名曲、「それが大事(大事MANブラザーズバンド)」の一節が脳内に流れ始めました。

ここにあなたが居ないのが淋しいのじゃなくて
ここにあなたが居ないと思うことが淋しい

この分かるような分からんような歌詞(落ち着いて言葉選んでクドウさん、それ「詩的」ってことだから)が、唐突に腑に落ちたのでした。

コンサートに行けないのが悲しいのじゃなくて
コンサートに行けないかもしれないと思うことが悲しい

それやΣ( ゚д゚ )!!!!!!!! (いや、そこまで大きい気付きでもないでしょうよ)

「ここにあなたが居ない」という事実以上に、「ここにあなたが居ない」と思ってしまう心持ちが自分を傷付ける。
「コンサートに行けない」という事実はまだ無いのに、「コンサートに行けないかもしれない」という不安が自分を苛む。

私たちは意外と事実に対する客観的な認識よりも、自分の「思い」みたいなものの方に突き動かされるものなのかもしれないな、と思ったのでした。

これはきっと悪いことではなくて、「目の前の逆境が分かりやすく変わらなくても、希望を持つことができる」という形で私たちを励まし、押し出してくれる力にもなり得るのです。

信仰とか祈りとかいうものにはたぶんそういう力がある。それは決して「思い込みに過ぎない」などと一蹴できない確かな力があるからこそ、人は綿々と「信じる営み」を続けてきたのだろうと思います。

冒頭に引用した聖句は、その意味において、私がずっと力付けられてきた言葉です。
苦難は確かにある。でもそこで闘っている私をイエスさまは知ってくれていて、勝利の先取りを宣言してくださっている。
目の前の現実は何ら変わらないけれど、「ひとりではない」「力あるお方が共にいてくださる」と思えたことで、崩れそうになる自分が何度立ち上がらせてもらえたことか。

いわゆる「信仰」に限らずとも、きっと多くの人にそれに似た経験はあると思います。
現状を変えてくれるわけではなくても、「頑張ってね」という言葉をもらうだけで力付けられたこと。
傍にはいられなくても、「応援してるよ」という思いをもらうだけで勇気が湧いたこと。
解決は与えられなくても、「私がそばにいるよ」というメッセージをもらうだけで、慰められたこと。
そういう、「はっきりと形になっているわけではない、何か」によって、私たちは案外生かされているのかもしれません。

だから! であるならば!
「行けないかもしれない」という不安におののくより、「どうしよう、推しに会えちゃう!」という希望に力付けられて、前向きに日々を過ごすべきですね、私。(分かってはいる……)
何とか心持ちの向きを変えていきたい今日この頃です。あと半年こんな調子で過ごすのかもしれない(笑) 
皆さん私のためにお祈りください。それが私の力になりますんで! よろしくお願いします!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?