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目指すはシュワっと爽やか炭酸水的な存在。

イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

新約聖書 マルコによる福音書 5章18-20節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員をしている、牧師です。

新年度が始まって1ヶ月が経ちました。年度初めは自己紹介の機会が増える時期です。その自己紹介にあたって、「あなたが言われて嬉しい言葉は何ですか」という質問を目にしました。

「言われて嬉しい言葉」……?

「がんばって!」「優しいね」、などの回答が並んでいる中で、「私だったら何だろう……」と考え込んでしまいました。「そうか、『がんばって』って言われるのが一番嬉しい、という人もいるんだな」と改めて新鮮な気持ちで受け止めたりもして。

そういえば谷川俊太郎『すき好きノート』の中にも「好きな褒められ言葉」についてのくだりがありました。

(谷川さんと対話するようにして自分が書き込むことで完成する本。去年買ったんだけど、書き込みはまだせずにいます。もうすぐ40歳を迎えるのを機に、書いてみようかなぁ)

年とってきたら褒められることが多くなった。「お若いですね」「お元気ですね」「××歳には見えない」、嬉しくないことはないけど、年齢より作品を褒めてよと言いたくなる。

谷川さんの言われること、分かるなぁ、と思いました。「嬉しくないことはないけど」、それ以外のことを言われた方が嬉しい、という感覚。

私だって、「素敵だね」「好きだよ」って言われたらもちろん嬉しい。「かわいいね」はもういいような気もするけど、それでもやっぱり言われたら嬉しいかもしれない。だけど、「かっこいいね」の方が昔から言われたかった気もする。

そんな風にいろいろ考えていたら、やがて思い付きました。「あなたから刺激を受けたよ」。これがたぶん一番嬉しい。一番グッとくる。アドレナリン出る。「あなたと話すと刺激を受ける」とか、そういうの。

そうか、私は誰かにとって刺激的な存在になりたかったんだな、と思いました。愛でられたり憧れられたりする対象よりも、「クドウと話すと、考えが広がったり、新たな気付きを得たりするきっかけになって、楽しい」って思われたい。

バリバリ文系だった私ですが、理科で習った「触媒」という言葉は妙に好きだったことも思い出しました。私は触媒になりたかったんだな、そうかそうか。

そう気付くと、自分自身のこれまでの営みにもいろいろ思い当たるところがありました。生徒さんとの関わりの中でも、私の理想の教師像は「触媒」だったのです。

教員でも牧師でも、生徒さんや信徒さんが「師自身」に心酔するというケースはままあります。それが一概に悪いというものではないけれど、それは私の目指す姿ではないな、というのを常々思ってきました。私自身を好きになったり私の伝えたことにこだわったりせず、「そこから」新たな力強い歩みをしていってくれたら、それが一番嬉しい、と。「酔わせる」のではなく「気分がリフレッシュする」、そんな爽やかな炭酸水みたいな。(まあ、私自身が「酔わせる」ほど魅力的な人間にはなりきれないので、杞憂ですけどね……と自虐クドウが申しております(笑))

冒頭の聖書箇所は、イエスさまが悪霊に取りつかれた人を癒した後の一場面。癒された人は「イエスについて行きたい」と願い出ますが、イエスはそれを許さず、「この出来事をあなたの周りの人に知らせなさい」と言われました。

イエスによって癒されたことの喜びと感動を、イエスへの尊敬や思慕に留めるのではなく、イエス「から」歩み出して行った先で伝える力に変える。彼がイエスへの「信奉者」に留まらず、「宣教する者」となっていくことで、まるでドミノ倒しのように世界に明るい喜びが広がっていく。そんなイメージが湧いてきます。イエスさまが望んだのも、「神と人との触媒」としての神の子の姿だったのでしょうか。

このnote も、誰かにとって「ああ、そんなものの見方もあるかもな」とか「その聖書の言葉、知っていたけど、そういう読み方をしたことはなかったな」なんていうシュワっと爽やかな刺激になったなら嬉しいです。



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