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「応援対象を何と呼ぶか」問題(別に問題ではない)

キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、愛する子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。
わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。

新約聖書 テモテへの手紙二1章1-4節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員をしている、牧師です。

芥川賞受賞で話題となったこの本、皆さんお読みになりましたか? オタククドウは昨年度読みました。なんて言うか、分かり過ぎてひりひりする感じでしたね……。オタクを自称する人の多くは、自分自身の持て余す情動が余さず言語化されているのに出会って身悶えしちゃうことになりそうな。そんな作品。

この本のおかげか「推し」という言葉が界隈以外の人にも広く知られるようになりました。「推し」。いい言葉ですね。音節が短くて口にしやすいこともあるのでしょうけれど、気付けばずいぶん浸透していた言葉です。便利なので、私も最近は時々使わせてもらっています。

宝塚、歌舞伎など、様々な「沼」遍歴を持つクドウですが(いずれの沼にも未だ片足を突っ込み続けていてタコ足状態のこの頃)、「応援している対象を何と呼ぶか」というのは私にとって結構気になるところでした。

周囲には、「贔屓」という言葉を使う人もいました。うん、分かる。好きだからこそ応援するからこそ、いろいろ頑張っちゃうもんね。ただ、私はこの言葉、自分の「ファン活動」に対しては抵抗があって使えませんでした。

贔屓って伝説上の生き物で、こんな亀みたいなやつです。重い物を背負えるので、「応援対象」の下に潜り込んでぐいっと持ち上げてやる、そんなイメージで「贔屓する」と言うんですね。このWikipediaの記事にもありますが、なんせこの「贔屓」という漢字、「貝」だらけです。貝は当然財貨を示します。ですから、「金銭に換算できるような結果を出して(与えて)ナンボ」という印象なのです。そうすると私なんぞは「〇〇さんが私の贔屓」と言いかける度に、「いや、私ごときではまだまだ『贔屓』と呼べるほどの貢献はできていない……」と謎の謙虚さ(違う、ただの卑屈や)が邪魔をして、「ひいき……じゃなくて、応援……しています……」みたいにこの言葉を引っ込めちゃうのでした。

そこへ来ると「推し」って便利です。「推す」のは自分の立ち位置からできること。「贔屓」のように対象の足元に潜り込んでえいやっと持ち上げるほどの結果が出せなくても、自分の場所から、自分の力加減で「ちょっと推す」ことも「目いっぱい推す」こともできそうです。SNSなんかを通じて何百人ものフォロワーに向けて「推す」人もいれば、ごく身近な友人たちに「この人素敵やから見てみて~!」とこぢんまり「推す」人もいるでしょう。うん、使い勝手が良いですね。

というわけで私も「推し」という言葉を使ってはいるんですが。……なんとここにも「自虐クドウ」は顔を出すんです。

「私、ほんとにちゃんと推せてる……?」「いや、私全然『推せ』てもないかも……」「ただ感動したり元気もらったりときめいたりさせてもらってるだけ……」

そう思うと、私が「推し」と言うのも何だか傲慢なようで憚られる気がしてきてしまうのでした。我ながらメンドクサイやつですね。

そんな折、韓国語を勉強している中で「최애(チェエ)」という言葉と出会いました。「最愛」という意味です。「推しが尊い」とか言う時にこの言葉を使うんだよ~と、友人から教えてもらいました。

최애。最愛。

それや~~~!!! 私が言いたかった、思ってたんはそれや~~~!!!

私は「対象」に対して「何か貢献できている」という「結果」に自信が持てなかったんです。でも「好きか?」と聞かれれば、「めっちゃくちゃ好き! 大好き! 愛しています!!」と、これは自信を持って言える。愛しているか否かは自分の中の問題であって、結果が問われませんから。もちろん「愛を結果で表せ」と問われれば、「んっがっんっん……」と往年のサザエさんのように口ごもらずを得ないのですが……。(伝われ)

引用した聖句は、使徒パウロが宣教者仲間のテモテ(テテじゃないよ)(突如現れるBTS愛)に宛てて書いた手紙の冒頭です。

パウロはここでテモテに「愛する子テモテ」と呼び掛けています。そして「昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし」ていると語り、テモテのことを「忘れることができず」、「ぜひあなたに会って、喜びで満たされたい」と続けます。

「昼も夜も思い起こし」「忘れることができず」「ぜひ会って喜びで満たされたい」

アーメン!!!!!

注:キリスト教のお祈りでよく聞く「アーメン」とは、「その通り」という意味合いの言葉で、祈られた内容に心を合わせることを示して共に唱和するものです。

ハイ、意味がよく分かった皆さん、改めましてどうぞご一緒に。「アーメン!!!!!」

いや、ほんとこれですよね。いわゆる「贔屓」や「推し」に私が感じていた心持ちは、まさにこれなのです。

パウロはテモテに「愛する子」と呼び掛けていますが、当然親子関係ではありません。宣教の同労者です。仲間です。苦しい時も不安な時も、いつも隣にいてくれて一緒に歩んでいてくれた存在。離れていても、仲間として心強く思える存在。そんな思いでテモテに「愛する子よ」と呼び掛けているのでしょう。

ということは、テモテはパウロにとっての「최애」。パウロがテモテを贔屓したり推したりしているのではなくて、テモテからパウロがいろんな心の支えをもらっていて、そのことに感謝する意味での「愛」がそこにある。

この意味において、「大好きで応援したい対象」を「贔屓」でも「推し」でもなく「최애/最愛」あるいはパウロに倣って「愛する子」と呼びたい私なのです。語呂悪いから、なかなか伝わらんやろな(笑)


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