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後ろめたさと感謝の間で、誠実に生きる。

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。新約聖書 コリントの信徒への手紙一 1章18節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

次男の参観日がありました。理科の授業で植物の種を観察し、「大きさはどのくらい?」「色は? 形は?」というやり取りをしているのを見ていて、すっかり忘れていた自分の小学校時代の出来事を思い出しました。

高学年の理科の授業のことです。でんぷんを顕微鏡で観察していました。その時も先生から「でんぷんの形は?」と聞かれたのです。

多くの生徒が「まるい」と答えました。先生は「そうだね、でもまん丸じゃないよね」と、もっと違う答えを求めました。生徒たちが口々に「つぶれた丸」「ながほそい」などと答えていたのですが、先生が考える「模範解答」ではなかったのでしょう、なかなかそのやり取りが終わりません。

そのうちに一人の生徒が「におい玉みたいな形」と発言しました。
「におい玉」って、皆さんご存じですか?

懐かし過ぎて涙出そうになった(´;ω;`)ウッ…
「香り玉」って呼ばれたりするみたいですね。私の小学校時代、少なくとも私の周りでは「におい玉」で通っていました。地域差もあるんかな?

小学校で当時流行っていたんです、「におい玉」。
たしかにこれ、一粒一粒はきれいな球体ではなく、ちょっと「ながほそい」。でんぷんの形によく似ています。顕微鏡で覗いたでんぷんの半透明な感じともよく通じる。「におい玉みたい」と発言したその生徒は、本当によく思い付いたなぁと今さらながら感心します。

ところがその先生は「におい玉」をご存じなかったので、「におい玉? それってどんなの?」と尋ねられたんです。そこで私が張り切って一言、「あのね、卵型をしてて……!」と答えたその時、先生が「そうです! でんぷんは『卵型』だね!」と。

「でんぷんはどんな形?」というやり取りはそこで終わり、「でんぷんの形: まる△ たまごがた〇」というようなことが黒板に書かれ、授業は次の話へと移っていったのでした。

次男の参観で、あの時の先生の「待ってました、その答え!」と言わんばかりの、目を見開いて嬉しそうに「そう!」と叫ばれた、その瞬間の様子がありありと思い起こされたのでした。約30年忘れていたのに。

当時の私の胸の中に、「先生が求めていた答えを出せて嬉しい」という思いが、封を切ったばかりの炭酸飲料の泡のようにしゅわーっと湧いてきたのを思い出しました。
そして一瞬のその歓喜の直後、「私が答えたのは『におい玉』についての説明であって、『でんぷんの形が卵型だ』と分かったからではない」という後ろめたさに呑まれた感覚までもが甦ったのでした。

先生も、もしかしたら級友たちも、「クドウさんが、先生の求める『正しい』答えを答えた」と思っているかもしれない。でも、「におい玉みたい」と言ったその生徒は、「『におい玉』って答えたのは、自分だったのに」と、悔しく思っているかもしれない。そして他ならぬ私が、「私は『におい玉』という答えに便乗しただけで、自らその『正解』を思い付いたわけではない、私が『成果』を横取りした形になっただけだ」と知っている。

私は何も、功績を横取りして自分が褒められたいと望んだわけではありません。でも、結果的にはそういう部分が生じてしまったし、当時の私は「いや、私は今正解を答えたわけではなく、あの「におい玉」という回答の補足をしただけです」などと説明できるほどの度胸も分析力も語彙力も持っていませんでした。ただ、後ろめたさだけが胸の奥の方に残ったのでした。

悪気が無くたって、誰かを踏みつけにしてしまうことってあるんだな。
人が誰も自分のことを責めなくたって、自分で自分のよこしまさを責めたくなることってあるんだな。

キリスト教では「罪」という言葉、概念が割と重要です。キリスト教に触れたことのない人たちからするとこれが不可解に思われることが多いところです。私が日々出会う生徒さんたちもそうで、「そんな悪いことしてないのになー」なんて思われるようです。

「罪」というと「犯罪」のような、法やルール、あるいは共有されている習慣に反するもの……という印象があるので、「そんなに『罪』なんて犯してないぞ?」という理解になるのだと思います。
もちろんそれも間違いではないんですが、キリスト教の言う「罪」はもっと広い意味合いというか、根源的な部分についてを指しています。
「やってしまったこと」としての罪ではなくて、「人として思いもかけず生み出してしまう悲しみや痛みの原因としての罪」とでも言えばいいでしょうか。

先の思い出話は非常に卑近な私の例ですが、これぞまさに「思いもかけず、誰かを出し抜いたり、何かを奪い取ったりしてしまう」ということだなぁと思ったのでした。
「悪気無しに人を遠ざけたり、自分だけを守ったりしてしまう」というところに「人が根源的に持っている悲しみ」があって、それをキリスト教では「罪深さ」と表現しているのだと思っています。

その、どうしようもなく人が抱えている「罪深さ」は、自力で払拭できるものではありません。生きている限り私たちが背負い続けるものです。これを「振り払って見ないふりする、そんなの自分には関係ないと思って生きる」という生き方もあると思います。
でも、それができない人もいる。
善く生きたい、誰かを傷付けたり踏みつけたりせずに生きたい。それなのに、否応なく自分が誰かを食い物にしながら生きてしまっている自分に気付いてしまう。

そんな人のために語られたのが、「十字架の言葉」なのだろうと思います。「あなたが抱える罪を、私が背負ってあげるよ」とイエスさまが語りかけてくださっている。罪を「無かったこと」にするのではなく、「引き取ってくださる」。だからそれを信じる者は、「わーい! よっしゃ、私はこれで無罪!」というような無邪気な喜びではなく、「本来私のものであった罪を掬い取っていただいた」という感謝と、応答への意志を持って生きていくことになる。

罪ある者の後ろめたさと、罪許されたことの感謝の狭間で、希望を与えられた者として「せめて私はここからどう善く生きることができるか」ということを自らに問い続けていきたいと思っています。


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