「いつもと違う音」に耳を傾ける

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 

新約聖書 使徒言行録2章1-4節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員をしている、牧師です。

私の本務は学校なので、普段の教会の礼拝では一信徒として牧師の説教を聴く立場です。

教会では「主任牧師」と呼ばれる牧師がもっぱら毎週の説教をされます。継続的にその教会に関わっている人が聖書の言葉を取り次ぐことで、その教会に集っているメンバーにとって今必要な御言葉が語られる、という側面があります。病気や困難を抱えた人が教会メンバーの中にいれば、牧師はその人のことを思いつつ語り、聴く側もそれを心に留めて祈る、ということがあります。

ですが、時々はよその牧師を招いてお話いただいたり、普段は一信徒として礼拝に参加している私のような別の教職者が説教を担当したりすることもあります。「ゲストスピーカー」ですね。こういう場合、その時の教会の「文脈」からはやや外れるかもしれないけれど、いつも聞く慣れ親しんだ牧師の説教とは違う角度からのお話を聞けるという利点があります。

実際、同じ聖書箇所でも人によって、立場によって、あるいはその時置かれている状況によって、読まれ方は様々です。私は学校にいるため、学校の礼拝にいろんな教会の牧師をお招きしてお話いただくことが多くあります。その分、多様な説教スタイル、聖書解釈に触れられているなぁと感じます。

「え? 聖書は神さまの言葉なのに、そんな『人によって読み方が違う』なんてことがあっていいの?」と思われる方もいるかもしれません。

確かに神さまの言葉を人が恣意的に曲解してはいけないとは思います。人が神の名を借りて、勝手なことを語るというのは良くないことでしょう。けれども、牧師といえども人ですから、どれだけ謙遜に神の言葉を受け取ろうと思っても、そこにはその人ならではのバイアスがかかるものです。バイアス、と言うと聞こえが悪いかもしれませんが、私はこの「癖」のようなものこそ、人である牧師が説教をする上での大事な部分なのかもしれない、と思うことがあります。

先日新しくイヤホンを買いました。私は特にこだわる方ではないので、値段や形を中心に選びます。でも人によっては、それぞれのイヤホンやスピーカーのもたらす音質に強い思い入れを持たれることでしょう。

説教を担当する牧師というのは、このイヤホンやスピーカーと似ているのかな、と思います。そこにある音楽は変わりないけれど、聞こえ方にいくぶんかの「個性」が混じる。もちろん、聴く人によってそれが好みだったりそうでなかったりするかもしれませんが、そこも含めて「味わい」なのではないかな、と考えています。

冒頭で引用したのは、「ペンテコステ」の出来事の一場面です。十字架の死の後、復活したイエスは弟子たちにその姿を現しましたが、やがて天へと昇ってしまいます。再び主イエスと別れてしまった弟子たちが、ペンテコステ(五旬祭)と呼ばれる季節、共に集って礼拝していたら、「炎のような舌」が現れて、そこにいた者たちに異なる地域の言葉で神の業を語らせた……というのです。

どんなSFやねん! というような場面ですが、この物語は「神の出来事があらゆる国の言葉で語られ始めた」、つまりは「教会が世界宣教に向けて歩み出した」「教会の誕生」のモチーフとして読まれます。

彼らは別々の、ばらばらの言葉を語っています。この後に続く部分には、この騒ぎを耳にして集まって来た人たちがこの様子を見て「あっけにとられてしまった」とあります。それほど、その場に響き渡っている話し声はてんでばらばらだったのです。

この記述から想像できる「教会の誕生のありさま」。それは一言でいうと、「うるさかった」だと思います。慣れない、耳馴染みの無い、耳障りとも言える音の洪水。でもそれが「教会の始まりの姿」であり、きっと「神の国の先取りの姿」なのです。「神の国」というのはやかましいほどに、ばらばらの言葉が語られている場所なのです。

「私にとって理解しやすい言葉が聞こえなくなるから、他の言葉を語る者は黙れ」と口封じさせるのではなく、ばらばらのものが、そこに共にあるということの奇跡を共に味わう。それこそが「神の平和」なのでしょう。

「異なる言葉」「自分とは違う意見」に向き合うことは、とても疲れることです。自分とは違う考えを持つ人の言葉に耳を傾け、相手を自らと同じ「一人の人」として認め、その存在を尊重することは、非常に力の要ることです。でも、「私にとって馴染みの無い言葉」が共に語られる場にこそ、神の国の実現のチャンスがあるのかもしれませんね。

礼拝説教だけでなく、私たちの日常生活の中でも同じことが言えると思います。

異なることを語る者同士が共にある。むしろ「違う言葉」を語る人と前向きに出会って行く。そういう姿勢を大事にしていきたいと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?