飲み食いはたのしい。

それゆえ、わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって
飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の
日々の労苦に添えられたものなのだ。

旧約聖書 コヘレトの言葉 8章15節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員として働く、牧師です。

「炊き立ての白ご飯」

この言葉を前にして、心が揺れない人がおられましょうか。いや、ない。(反語)

ご飯が大好きです。麺類も粉もんも大好き、炭水化物ばんざい、パスタもうどんもラーメンもたこ焼きもお好み焼きもみーんな持って来ーーーい!! という感じの私ですが、やっぱりご飯は一番かもしれない。特に炊き立てのご飯があったら握らずにはいられない。米と海苔の組み合わせは最高。

昔、「好きな食べ物は?」と尋ねられて「米」と答えたら、「その答え、なんかずるくない……?」と言われたことがあるのですが、いや、申し訳ないけれど、「あれもこれも」ではなく「どれかを選べ」と言われたら、米としか言いようがないのですよ……。

居酒屋さんなんかに行った時でも、いわゆる「締め」は外せません。お酒も好きな私は、間違いなくエネルギー過多になるので「締めの炭水化物」はやめた方がいいと分かっているのですが、我慢できません。「気持ちの面でこんな消化不良を残したら、せっかくの楽しい夜が台無しになってしまう! 太ってもかまうものか! すみませーん! お茶漬けくださーい!」ってなことに。

「締め」のご飯とか麺類って、何だかお腹も心もほっこりして良いですよね。最近はスーパーで鍋用スープをいろいろ売っていますが、「締めには中華麺を入れて味噌ラーメンに!」「シメにご飯を入れてチーズを散らしてリゾット風に!」なんて推してくる商品も多いと感じています。みんなに愛される「締め」。抗えない魅力。

おいしさももちろんですが、何というか、楽しかった食事や飲み会の「余韻」のような部分もあるのだと思います。「終わり」と言って急にパッと照明が落とされるのではなく、徐々に幕が引かれていく感じ。それが「締めのご飯」。うーん、味わい深い。(ほんとか?)

この度の感染症拡大のせいで、私は約半年間、家族以外との食事をほとんどしていません。ものすごーく寂しい。最近はちょっと心が枯れてきてしまった気さえしています。けれども、気にせず行っちゃえ、とはなかなか思えないですよね。誰かとご飯を食べる……と思うと、「私が相手にうつしちゃったら」「もしお互い感染して、職場や家族にもうつしてしまったら」なんていろいろ不安になってしまって、踏み切れません。ジレンマ……。

冒頭に引用したのは「コヘレトの言葉」の一文です。やや厭世的な空気も感じられるとはいえ、やはり飲み食いは人にとって得難い楽しみなのだなぁ、それは昔も今も変わらないのだなぁ、などと素直に感心してしまいます。

思えばイエスも、いろいろな人と食卓を囲んで飲み食いしていた様子が数多く描かれています。「飲み食いを共にする」ということは、相手への信頼、心許しているということを示す分かりやすい行いなのでしょうね。

以前読んだこちらの本にも、「飲み食い」の話が書かれていました。

人間も動物も、食べることが生きる上で最大の関心事であることに変わりはないけれど、人間は二足歩行を始めて、広い範囲を歩き回って食物をとってきて、仲間の所へ持ち帰って「一緒に食べる」ということをするようになったそうです。食物の分配はしても、持ち帰って一緒に食べるということを、他の類人猿はしないといいます。その食物を採集した状況がどんなものか自分で確かめる術が無くとも、持ち帰られた物を、「仲間を信じて食べる」。これが人間独自の倫理観の始まりだということです。非常に興味深いなぁと思いました。

「共に飲み食いすること」がある面において最も「人間らしい」行いだと言えるなら、イエスがそれを率先して行ったということには深く頷ける気がします。「この人を見よ」!

ああ、それなのに、今や多くの教会でも聖餐式が行えずにいるそうな。辛い。

この度の感染症は、感染経路や予防法がなかなか判然としないことから、人と人とが離れざるを得ず、文字通りの距離感を生んでしまったような気がします。

「早く人間になりたい」なんてセリフがありましたね。今の私は「早く人間らしくなりたい」、心置きなく大切な人たちと「飲み食い」を共にして、コヘレトの言葉が語る「人生の楽しみ」を謳歌できる日が来て欲しい。そう強く願っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?