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諦めたらそこで「関係終了」ですよ ~失敗名鑑 聖書編 #04 エウティコ~

週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。新約聖書 使徒言行録20章7-12節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員として働く、牧師です。

『失敗図鑑』という本を読んで、「聖書の登場人物で『失敗図鑑』ならぬ『失敗名鑑』ができそうだ」と言い始め、ぽちぽちと書いてみましたが。

新約聖書の登場人物で次に取り上げるとしたら誰がいいのかな、なんて考えていて、冒頭に引用した聖書箇所に登場する「エウティコ」という青年のことを思い出しました。

以前、キリスト教草創期の宣教者パウロが「文章は良いけれど会うと大したことのないやつ」呼ばわりされていたということについて記事で触れました。

私は逆で、「口だけ」の人間かもね~、とほほ~、なんて書いていたのですが。

しかし今回引用している「使徒言行録」によれば、なんとパウロのお話の最中に居眠りした挙げ句、腰掛けていた窓辺から落っこちて死んでしまった青年がいたというのです。それがエウティコ。

「偉大な」宣教者パウロの説教中に、文字通り「死ぬほど」居眠りするなんて……! よっぽどつまらない話だったの……? なんて思っちゃいますよね。そもそもわざわざこんなエピソードを書き残すなんて、「使徒言行録」を書いた人はパウロを笑い者にしたかったの……? そんな疑心まで湧いてきます。

「説教中の、信徒の居眠り」は教会では「笑っちゃうあるあるネタ」かもしれませんが、教員であり牧師である私としては、「……笑えない(T∀T)」と思ってしまう話です。

生徒の居眠りで腹を立てたり悩んだりしたことのない教員はいないと思います。また、信徒の居眠りで落胆したことのない牧師もたぶんいないでしょう。

「口だけ」と自らを揶揄していた私ですが、その私もやっぱり「口すら」役に立たず、多くの生徒を眠りに誘う授業をしてしまうことがあります。これまでにもたくさんありましたし、今なお無いとは言えません。残念ながら、これは受け止めねばならない事実……。

いわゆる「アクティブラーニング」の流れの中で、「生徒が寝ない授業」が割合として増えてきた印象はあります。やっぱり人は受け身で話を聞いているだけだと、集中力が続かないんですよね。生徒の居眠りに立腹する先生たちでさえ、研修や会議の際には舟をこいでいる……。そう、誰だって「聞いているだけ」は眠くなるんです。

ただ、居眠りしたせいで建物の階上から落っこちて死んじゃうなんて……エウティコくんよ、それはあまりにも気を抜き過ぎていたんじゃないか? それは「失敗」という語では回収しきれないほどの大失敗であるよ……。失敗レベル、星5つ。

でも、「だから皆さん、エウティコくんの失敗を教訓として、居眠りには気を付けましょう」……、とは思わないのですよね、何となく。

窓辺から落ちて死んだエウティコを囲んで、仲間たちは騒ぎ立てます。ところがパウロは「騒ぐな。まだ生きている」と言うのです。そして共に礼拝を続けた。するとエウティコは生き返り、人々は大いに慰められた、と聖書は記します。

居眠りエウティコを見て、私たちは「死んでいる」と判断します。けれどもパウロは同じエウティコを見て、「まだ生きている」と言う。私はここに、教員としての自分の「生徒観」を改めさせられる気がするのです。

眠っている「彼」に対して教員は、「聞いていない、集中していない」つまりは「生きた状態ではない」と判断します。そして時には「授業という関係性」から外れた者と見なしてしまいます。「彼はちっとも授業を聞いていない。彼は死んだも同然だから、語り掛けても無駄だ」というように。

けれども「いや、彼は今は死んでいるように見えるが、まだ生きているのだ」と関わりの内側に招き入れ続けた結果、彼は「生き返り」、かえって多くの人の慰めとなるような中心的な人物になるのです。

我田引水と知りつつ敢えて「教員への教訓」としてこの話を読むならば、「エウティコの『失敗』を『失敗』として断罪せず、もっと長い目で語り掛け続けてみたらどうだろう」というメッセージに思えてきます。

居眠りは確かにエウティコの失敗です。だけど、「あら残念」とそのまま受け止めるのではなく、「いや、彼との関わりはまだ途上なのだ」と思えば、再び命湧き立つ豊かな交わりが生まれてくるのかもしれません。

エウティコくんを諦めず、長い目で語り続けることが「教え手」の役割であり、またエウティコくんこそが「教え手」の傲りや怠慢を戒めてくれる大切な「生徒」なのかもしれないな、と思うのでした。

ま、そうは言ってもやっぱりできるだけ眠くならないような教案作りを目指さねばなりませんけどね(^_^;)

200919エウティコnote用イラスト


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