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きれいではないから、愛おしい。 ~宝塚宙組「FLYING SAPA」を観て(ネタバレなし)

イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。

新約聖書 ヨハネによる福音書 13章26-27節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。牧師で、キリスト教学校の聖書科教員をしています。

観劇が趣味の私にとって、今週とても喜ばしい出来事がありました。宝塚宙組「FLYING SAPA」の鑑賞です。

宝塚歌劇は緊急事態宣言で春に全公演休止となりました。宣言が解除され、最近ようやく公演が再開したのですが、ここ最近の感染再拡大でいくつかの公演がまた休止となっています。そんな中だったので、この宙組公演もどうなることかと思っていました。「宙組公演関係者全員の陰性が確認された」というニュースに安堵しながらも、いつ休演になってしまうか分からない……とハラハラする日々でした。この公演は、千秋楽のライブビューイングとネット配信が予定され、「劇場に行かずとも観劇できる」という体制が整えられていました。本来春に東京だけで上演されるはずだったこの作品。延期になり、様々に状況が整えられたおかげで、この度私も観ることができたのでした。関係者の皆さんのご努力には本当に感謝です。

さてこの「FLYING SAPA(以下「サパ」と略記)」、作・演出は上田久美子先生。この演出家は多くのファンがつくような先生で、私もその一人。デビュー作からの快進撃を見せてもらってきていたファンとしては、この最新作もどうしても観たかったのです。その意味でも、延期を経ての今回の上演は本当に嬉しかったです。

上田作品はテーマ設定にも妙味があり、ドラマ性を十分に備えながらも芝居運びに強引さが無く、人物描写にもセリフの言葉選びにも深みがあって、繰り返し見ても発見や感動があります。バウホール公演(宝塚の専属小劇場)で何の気なしに初演出作品を観劇し、打ちのめされたようになってふらふらしながら帰ったのは良い思い出です。

今回の「サパ」は地球から逃亡して「ポルンカ」という惑星で新たに社会を築き上げた人間たちの物語。それは、人と人との違いを「争いの種」として徹底的に排除、管理した上で成り立つ、カギかっこ付きの「平和」な社会。全ての人間のデータが集約されることで、衝突やトラブルも未然に防がれる監視社会において実現する「平和」の欺瞞を描き、現代を鋭く風刺したSF作品です。

9月、無事に東京での公演が行われることを願いつつ、これ以上作品内容に言及することはしませんが、この「サパ」も含め、上田作品はいつも人間というものの複雑さ、割り切れなさ、厄介さを、それゆえに尊重すべきものとして描いているように思います。

愛しているのに上手く優しくできない。愛おしいからこそ憎らしい。憎んでいるから目が離せない。知り尽くしたいと願いながら、近付くほどに知らない部分が見えてくる。大切にしようとして、かえって傷付けてしまう。どこまでも寄り添いたいのに、どこまでも同じにはなれない。通じ合いたい、分かり合いたいのに、すれ違っていく。深く思えばこそ、距離を取る……。

そんな「一筋縄ではいかない」人間模様を精緻に描きながらも、決して分かりにくいもの、ただの矛盾と感じさせない辺りが巧いのです。

愛しているから憎んでしまう。愛しているから傷付けてしまう。愛しているから奪ってしまう。愛しているから抑えつけてしまう。「サパ」を観て深く心に残ったのが、そんな人間の不器用さ、そしてそれも葛藤として抱え込みながら生きていくしかない人間のいじらしさでした。

太宰治の作品に「駈込み訴え」というものがあります。

イエスを裏切ったイスカリオテのユダが、なぜそうするに至ったのかを自ら語るという形の小編です。私は以前からこの作品が妙に好きで、好きなのに心がむずむず落ち着かなくて容易には読み返せず、でもつい人には薦めてしまうのです。人間の複雑な心の機微、自分の中にもある「愛憎こもごも」な心中を写し出しているからなのでしょうね。

このユダ像はあくまでも太宰が思い描いたものです。でも聖書においても、イエスはユダのそういう「ないまぜ」の思いを受け入れていたのではないか、と感じます。パンを渡す行為でイエスは、ユダの裏切りをけしかけたようにも読めます。ですが「パンを与える」ということは、「呪い」でしょうか。パンを与えること、それはやはりどこかで「相手の存在、命への肯定」の意味を含むのではないかと感じます。弱さも狡さも卑しさも抱え込んだ弟子への、まるごとの肯定。それさえも全て背負って十字架に向かわれるイエスの深い愛。

人間のどうしようもなさを互いに受け入れ合い、許すことができたなら、と思います。あるいは許し難いことを許せないままに、それでも共に生きることを求め続けたい、と思います。きれいなだけが良いことではない。汚く醜い部分も全部引き受け、傷を抱えながら、それでも前へ進んでいくことはできると思うのです。

折しも終戦記念日の今日、こんなニュースが。

かつての過ちを認めたところで、それは「自虐」でも「否定」でもないのです。むしろそのような向き合い方の中に、国の営みを、人が織りなす世界を、健やかに愛する道が拓けると信じています。

「複雑さ」に疲れず、一面的な「分かりやすさ」に流れてしまわない度量を持っていたいです。

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