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逆風の中でこそ、「しぼまないもの」が見えてくる。

草は枯れ、花はしぼむが
わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

旧約聖書 イザヤ書 40章8節(新共同訳)

こんにちは、くどちん、こと工藤尚子です。キリスト教学校で聖書科の教員として15年になる、牧師です。

先日、所属教会の礼拝説教を担当しました。なんと初めてのZoom説教! 生中継のアナウンサーよろしくカメラを見詰めて、でもその向こうにいるお一人お一人のことを強く思いながら、御言葉を取り次ぐ奉仕をさせていただきました。

礼拝の後、Zoom参加者が任意でカメラをオンにして、お互いの顔を見合う時間を持ちました。いつもなら毎週のように会っていた教会の仲間の顔。画面越しながらも久しぶりに見ることができると、胸の奥の方に温泉が湧いたみたいに、じわーっとあったかい気持ちになって、ちょっぴり泣きそうにもなりました。リアルタイムで、双方向のやり取りができる文明の機器、素晴らしい。

この1~2年、地震や台風、大雨など、「礼拝に集まるのは無理しないで」と言わざるを得ない事態が何度かありました。が、ここまで長期に及んで、しかも「基本的には礼拝堂に来ないでください」と言う日が来ようとは、想像もしていませんでした。

前にも書きましたが、今回いろんな教会が「遠隔礼拝」に一斉に取り組み始めていて、それはそれで良いことだと感じていますが。(やり方は本当にそれぞれなので、その点についても近々自分の考えの整理のため一度文章にまとめてみたいと思っております。)

当たり前のように思って見過ごしていたものが、実はとても大切だったと気付かされることがあります。それはたいてい、「思いがけない逆境の時」ですよね。「風邪をひいて初めて健康のありがたみが分かる」とか、子どもの頃よく言われたものでした。

学校の方も遠隔授業の取り組みが各校で始まっていて、それによる格差の問題(端末や通信環境の整備だけでなく、自立的な学習への家庭内支援が得られるか否かなども含め)も指摘されています。そんな中で、「知識の伝達」はオンラインで一律にできても、「学び」というものはもっとダイナミックなもので、「場」において生成されるんだなあということをつくづく感じています。自分は教員として今後、「知識を教える人」よりも「場の価値を最大限に引き出す役割」として注力していきたいという気持ちが強まりました。あー、だからこそ、早く生徒と会いたい。頑張るからさ。

今この「逆境」で、私たちは「そこに行けば誰かと会えた」という「場」の素晴らしさや、双方向のコミュニケーションの意味などを思い知らされたような気がします。礼拝しかり、学校しかり。楽しいことがいっぱいあったり、当たり前のように人と話せたりしていた時には気付かなかった、あるいはそこまで大事だと思っていなかったものです。

明るく分かりやすく目を楽しませてくれる「草花」が枯れ果てたような逆風の中だからこそ、しぼまない、本当に確かな、大切なものが分かってきたのだと思います。そして、それこそが「神の言葉」なのだと、冒頭の聖書の言葉は語っているんですね。

「神の言葉」って言われてもピンとこない……自分とは関係ない……という人もいるかもしれません。でも、今の状況の中で、何気なく見過ごしていたものの価値を再確認した、という人は多いと思います。「友だちとどうでもいいようなおしゃべりをして笑い合いたい」「離れて暮らす家族の健康が心配」「『また会おうね』と約束したきりのあの人と、ちゃんと会っておけば良かった」……。心にある切なる思いをきちんと見つめれば、それぞれにとっての「大切なもの」が分かってくると思います。そしてそれらの「大切なもの」を通して、実は神さまが、私たちに語りかけてくださっているんだと私は信じています。

これから先も、私たちはまた様々な形で逆境に立たされることになるのでしょう。けれども今再確認している「大切なもの」はきっと、枯れることなくしぼむことなく、私たちのこれからの人生を支え続けてくれるはずです。

平安な日常の喜びが奪われた今こそ、「心静かに自分自身を見つめる時」を持ちたいと思います。それをキリスト教では「祈り」と呼びます。

200513しぼまないものnote用イラスト


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