見出し画像

【山田太郎問題】『こども庁』本が無視し続ける自民党の本質

 シリーズの記事一覧は『【山田太郎問題】序文と記事まとめ』から。

 今回は趣向を変え、山田太郎が2023年8月に出版した著書『こども庁 ―「こども家庭庁創設」という波乱の舞台裏』について論じる。なお、本書についてはYouTubeの配信でも取り上げたので是非ご覧いただきたい。

 本書について語るべきことはおおむね2つに要約できる。1つは、本書の内容が山田太郎の自慢話に終始していること。もう1つは、本書では現在の日本における子ども政策不足の本質的原因が延々と無視され続けていることである。

 本記事では、この2点を中心に本書、山田太郎、ひいては自民党の問題を論じる。


問題1:延々と続く内輪の自慢話

 本書はこども家庭庁の創設が検討されてから実際に創設されるまでを、おおむね時系列で追ったものになっている。そもそもこども家庭庁の設立が2023年4月であり、本書の出版が同年8月であることを考えれば、内容がこども家庭庁それ自体より設立の経緯に偏ることは必然であろう。

 問題は、本書に登場し著者によって得意げに語られるこども家庭庁創設までの苦労や苦難、様々なハードルが、ほぼ全て自民党内部の都合によるものであるということだ。

 例えば、著者はこども家庭庁創設最大の困難として、菅義偉首相(当時)が自民党総裁選への不出馬を突如決めたことを挙げる。こども家庭庁創設を推し進めていた政府・政党のトップが突然交代するという事態に、著者は子ども政策が新たな総裁・代表に引き継がれるか不安を抱く。

 だが、菅首相の退陣は所詮自民党内の都合に過ぎない。総裁選がそのタイミングで行われることも、菅首相が再選を困難だと見込んだことも、自民党内部の話であって、その外にいる我々市民には何ら関係のないことである。そのことについて「大変だったのだ」とアピールされたとて、我々の目からすればその姿は、勝手にレポートをさぼったにもかかわらず締め切りの前日になって慌てて一夜漬けを始め「マジヤバかったわー」とイキる大学生とあまり大差ない。

 仮に、著者が野党議員であれば話は別であろう。度重なる困難は全て著者と何ら関係のないところから湧いて出たものであり、著者に責任はない。その困難は純粋に外部から襲来するものであり、それらを乗り越えることは偉業である。

 一方、著者である山田太郎は自ら望んで自民党から出馬し、当選したのである。誰かに強制されたわけでもない。自民党が福祉政策に冷淡であることは周知の事実であり、この点で苦労することはわかりきっていた。故に、そんなところで盛り上がられても読者は(山田太郎の信者でもない限り)白けるしかないのである。

山田太郎が自慢するほどヤバくなる自民党の内部

 本書において面白いのは、著者が自らの苦労を針小棒大に語れば語るほど、自民党が碌でもない政党になっていくということである。

 例えば著者は、『政治の世界では、一度上手くいかなかった構想に、二度目はありません』(p103)と書き、あたかも自身がギリギリの攻防を重ねて困難なことを成し遂げたかのように大げさに書きたてる。しかし、仮にこれが事実だったとすれば、このことは単に、自民党が極めて硬直的かつ狭量な政治組織であることを示しているだけに過ぎない。

 政治の世界において、ある政治的構想が時の運否天賦により頓挫することはいくらでもあるだろう。先に著者自身が挙げたように、不意の首相退陣などで法案が宙ぶらりんになって流れることもありうる。あるいは、突然の大災害に対応しているうちに国会が会期末を迎え、優先順位を下げざるを得なかった法案が廃案になることも過去にあったかもしれない。

 こうしたとき、一度上手くいかなかったからと言って二度目の議論を許さないのは非合理的、というより意味不明である。もし本当に著者の書く通り、自民党が二度目の議論を許さない政党なのであれば、自民党は途方もなく馬鹿の組織になってしまう。もちろんそんなことはないだろうから、著者の記述が極めて不正確かつ不誠実なのだと考えるのが妥当だ。

 しかし、本書において、このような構造は必然でもある。著者が本書でアピールしたいことは、繰り返すように、所詮自民党内部での出来事に過ぎない。これをより(実際より)大きく見せかけるためには、自民党内部に困難を、ひいては困難をもたらす悪者を作らなければならない。このため、著者が自慢話を膨らませれば膨らますほど、自民党内部の人々が狭量で支離滅裂な反応をしていることになり、そんな人々で占められている自民党という組織が恐ろしくヤバいことになるのである。

「一度上手くいかなければ二度目はない」は大嘘

 なお、著者の主張する『政治の世界では、一度上手くいかなかった構想に、二度目はありません』は誤りであると断言できる。なぜなら、直近にこの反証となる例―入管法改正―があるからだ。

 御周知の通り、入管法改正法案は2021年に採決が見送りとなったものがほとんどそのまま2023年に提出され、可決されてしまったものである。つまり、二度目はあったのだ。山田太郎は2021年時点ですでに参議院議員であるため、これを知らないはずはない。

 もう1つの事例として、創作物における性描写を違法化することを求める請願が挙げられる。この手の請願は繰り返し提出されており、その大半はまともに省みられることなく放置されているものの、少なくとも一度上手くいかなかったからといって二度目がないわけでもなく、それどころか何度だって訴えることが出来ることを示す事例と言えよう。

 山田太郎は「こどもまんなか」を訴えながら難民の家族を引き離す法案に賛成してしまえるほどに不勉強であるから、入管法改正法案が二度目であることには気づかなかったかもしれない。しかし、自身が広く訴え当選の直接的要因にもなった表現の自由に関して、同様の請願が二度どころか再三に渡って提出されていることに気付いていないとすれば、あまりにもお粗末と言わざるを得ない。

問題2:誰がなぜ子ども政策を放置したのか

 本書の問題点の2つ目は、著者が日本における子ども政策の杜撰さの本質的原因について目を逸らし続けている点である。

 前提として、日本の子ども政策は極めて遅れており、そのことは著者も理解するところである。本書の前半ではこのことが滔々と書かれており、見出しでも『家族関係社会支出は先進国の中でも最低の日本』『穴だらけのこども政策』とある。

 では、誰がそのような事態を招いたのだろうか。もちろん、これまでの国であり、政府である。が、その表現は正確ではない。

 戦後日本は、大半の時間を自民党政権下で過ごしている。故に、国の怠慢や政府の失政は、そのほとんどすべてが自民党の責任である。断じて「悪夢の民主党政権」のせいではない。

 本書にはその視点が不足していると言わざるを得ない。

 通常、自民党議員が政策について、これまでやってこられなかったことを行うとすれば、その記述はある程度内部批判的になるはずである。これまでやってこられなかったことを問題するのであれば、それをやってこなかった主体である自民党にもまた批判の目を向ける必要があるからだ。

 だが、本書において自民党が批判されるシーンはあまりにも少ない。本書において、著者がこども政策の不足を批判するとき、政治を行った主語は必ず「国」や「政府」である。自民党ではない。

 自民党について批判的に言及する場面があっても、『一部の議員が』(p148)や『反対意見の中には』(p159)など、極めてぼやけた表現になっている。言動を称賛する際には具体的な個人名を挙げているのとは対照的であり、著者が直接的な自民党批判を避けているのは明白であろう。

 もちろん、一般に、自身の所属組織を批判するのは心理的な抵抗もあり、憚られるものである。だが、こども政策の行き遅れを批判するのであれば、その主体に対する批判を抜きに有効な議論を行うことはできない。

 なにより、著者は自民党を中から変えると訴えて当選したはずである。批判すら及び腰な人間に組織を変えることが出来るだろうか。

お前はどこの人間だ

 こども政策の不足を招いたのは自民党である。もう1つ重要なのは、著者はその自民党の一員であり、こども政策の不足の責任の一端は著者にもあるはずだということだ。

 本書にはその視点が全くない。

 もちろん、著者は所詮1年生議員であり、自民党のこれまでの政策全てに責任を負うものではない。しかし一方で、著者が自民党議員となってから本書の出版までに4年ほどが経過しており、まったくのお客様でないことも事実である。

 著者の立場に照らせば、これまでの自民党の失政と怠慢、ないしは力不足について悔恨する類の表現が少しは見られてもよいはずである。が、本書にそのような表現は一切ない。

 本書の前半には、北海道旭川市でいじめ被害の末に亡くなった子供について触れている部分がある。本書には現場で著者が手を合わせる写真も掲載されているが、そうした場面にあっても、著者は自身や自身の属する政党の至らなさを嘆くことはなく、市と教育委員会の対応の悪さを責めるばかりである。

 ここまで書いてもなお、著者は「過去の自民党の政策に自分は関わりない」と言うだろう。しかし、それもまた著者の都合であり、自民党の都合に過ぎない。4年目だろうが20年目だろうが、外から見れば同じ自民党議員である。一度は落選した著者が当選できたのは自民党の一員になったためである。自民党という組織に入った利益は得るが不利益はごめんこうむるという態度を、一般に身勝手という。

家父長制には手を出すな

 本書は自民党の責任を無視し続けることから、必然的に、日本のこども政策が立ち遅れた本質的原因―自民党内にヘドロのように沈殿する家父長制への妄執―にも触れることが出来ていない。

 自民党という保守(ないしは極右)勢力において、家父長制がある種のドグマとなっていることは明白である。本書においても、「こども庁」という名称が強く反発を受けたことが書かれているが、これは子どもが「家庭」から解き放たれることが、家という牢獄に家族を家長(父や夫)の奴隷として縛り付けることで成立する家父長制にとって甚大なダメージとなるからに他ならない。縛るための道具がなければ奴隷制は成立しえないのである。

 同様に、こども基本法への反発からは、権利を家長の権限を阻害するものとみなし、家長の統制を外れることを「わがまま」と見なす極右家父長制的世界観を見て取ることが出来る。また、こどもコミッショナー制度への反発からは、日本社会の家長たる行政(あるいは自分たち政治勢力)の決定に逆らい子どもの権利を代弁する「こどもコミッショナー」への嫌悪感を読み取ることが可能である。

 数々の反発―その多くがあまりにも稚拙で低質なもの―からわかるように、こども政策最大の阻害要因は自民党であり、その中に根付く家父長制である。ここに切り込まない限り、日本の子ども政策が改善されることはない。こども家庭庁を作ったとしてでもだ。

 事実、これまでこども家庭庁が何をしてきただろうか? 話題になったのはくだらない写真コンテストだけである。しかし、こども家庭庁の政策がああなってしまうのは、背景に家父長制に反する政策を許しまいと画策し、圧力をかけんとする自民党が存在するからであろう。これではいくら新しい省庁があっても、やることはこれまでと変わりようがない。

 日本の子ども政策を改善するためには、この家父長制に切り込み、切り捨てる必要がある。だが、本書にその視点はない。いかに著者が威勢のいいことを言っても、自身の属する政党のドグマには切り込めないのである。1年生議員にそんなことが出来るとは信者以外誰も思っていないだろうが、だとすれば『自民党を中から変える』とは何だったのだろうかと白けざるを得ない。

十中八九統一協会

 本書の数少ない価値のひとつは、こども家庭庁の名称変更問題に関する記述があることだ。名称変更については、自民党とねんごろである統一協会の影響があったと噂されていたが、その真偽は定かではなかった。

 著者は名称変更について、『このニュース(引用註:名称変更)はまさに寝耳に水』『私だけが知らなかったわけではなく、党内でもごく一部の議員しか知らない情報でした』(p139)と述べている。また、『当時、こども庁創設に深く関わり奔走していた私でさえ、いったいどのような圧力があったのか分かりませんでしたし、今にいたるまで、本当の経緯や理由、真実を知ることができていません』(p141)とも書いている。

 要するに何もわからないということだが、著者がわからないということが大きな手掛かりとなっている。こども家庭庁創設の議論を先導してきた著者であっても未だに真相がわからず、その他の議員も知らない情報であったことから、名称変更は自民党のごく一部、しかも会議において無理を通すことができる上層部の意向であることがうかがえる。

 そして、そのような上層部が、名称変更について突然横車を押すような手段を取らざるを得なかったのは、様々な理由から真っ当な議論によって名称変更を訴えることが困難であったからだと推測できる。その理由は定かではないが、正当性をもって訴えにくい理由で名称変更を求めようとしているとか、突然になって要求することとなったので正当な手段で議論する時間がなかったといったたぐいの理由であろう。

 このような理由が生じる原因として真っ先に思いつくのが、外部からの圧力である。自民党、しかも上層部にそのような圧力をかけられる組織は少なくない。その数少ない組織の1つが統一協会である。統一協会が家父長制に傾倒していることは周知の事実であり、「こども庁」の名称を煙たがっても不思議ではない。

 実際にどのようなやり取りがあったかは不明である。統一協会の「要請」は些細なものだったが、ほとんど信者となり果てている極右的な議員にとっては渡りに船で、これ幸いと乗じてこども家庭庁を潰そうとした、という可能性もある。だが、周囲の状況から考えて、統一協会の影響がなかったと結論するのはあまりにも能天気であるとはいえる。

 事実、統一協会の影響は自民党に深く浸透している。著者でさえ関係者の主催する講演会に登壇しており、統一協会と全くの無関係ではない。このような状況であるから、自民党議員の言葉と統一協会の言葉の区別は曖昧ですらある。

 再三指摘されていることだが、一国の政治が反社会的カルトの影響を受けているとすれば由々しき事態である。信仰、というよりは妄信が行政を左右するのであれば、問題の解消はその妄信を切除しなければ困難であろう。こうした状況であるにもかかわらず、著者は本書において統一協会の名前すら出せないのである。

現実を見ない議論に意味はない

 ここまで本書の問題点を指摘してきた。本書における問題点、すなわち、内輪の自慢話に耽溺し、子ども政策の遅れの原因から目を逸らすということは、言い換えれば「現実を見ていない」とまとめることができる。

 その姿勢は本書のタイトルに象徴されている。本書のタイトルは『こども庁』である。『こども家庭庁』ではない。著者は存在しない省庁の名前をタイトルに掲げ、これを作ったのだと得意げなのだ。マルチバースと世界が混線でもしたのだろうか?

 ありとあらゆる問題解決において、その第一歩は現状を正しく把握することである。子ども政策も例外ではなく、これまで子ども政策が遅れてきたこと、名称ひとつとっても激しい妨害にあい当初の構想を全うできないことは、まごうことなき日本の現状である。これを虚心坦懐に見つめなければ全ては始まらない。

 しかし、著者である山田太郎にはそれが出来ていないように見える。著者は子ども政策について『あらかじめEBPM(引用註:エビデンス・ベースト・ポリシー・メイキング)を意識した予算計画を決定しておくべき』(p194)とも書くが、タイトルからして現実から乖離している本を書いてしまう人物に、エビデンス・ベースドな政策作成が可能であろうか。

 本書は結局のところ、著者の稚拙な世界観を開陳するだけで、子ども政策の足しになるものではない。実際には子ども政策がなんら進展していない中で、何かが成し遂げられたかのような雰囲気だけは醸し出している本が出版され、それが既成事実であるかのように扱われることは有害であるとすら言えるだろう。

金のない犯罪学者にコーヒーを奢ろう!金がないので泣いて喜びます。