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【抵抗の手札】誰が言っているかも重要

ひろゆきと沖縄

 いつでも読まれる文章を書く、などと宣言しておきながらいきなり時事ネタを書くことになり申し訳ない。辺野古の座り込み運動を揶揄したひろゆきについて触れたい。

 遠い未来の読者のために説明をしておく(いつか、ひろゆきについても追加説明が必要な時代がくればいい)。2022年10月、ひろゆきが沖縄県の辺野古で行われている座り込みの現場に足を運び、座り込みをしている人が誰もいなかったと揶揄するツイートを投稿した。しかし、座り込みは埋め立て工事を阻止・妨害するためのものであり、トラックによる土砂の搬入を遅らせるためになされるものだ。ひろゆきが現場を訪れた夕方には搬入が終わっており、そこに誰もいないのは当然だった。

 そのようなことは、少し事前に下調べすれば分かったはずだ。辺野古の活動を実際にしている人にアポを取って、その人の話を簡単にでも聞けば済んだ話である。実際、彼はネット番組の取材で来ており、アポを取ることは難しくなかった。だが、ひろゆきはそうせず、あたかも反対運動が虚構であるかのように揶揄した。デマの流布と言っていいだろう。

 この一件から、琉球新報がひろゆきに対し取材を申し込んだ。だが、直前になって取材は取りやめとなり、ひろゆきは琉球新報が自分の都合で取材を取りやめたかのようにツイートを投稿した。しかし、実際にはひろゆきが直前に条件を追加し、琉球新報は予定していた取材日までに結論が出せずに取材を取りやめざるを得なかった。(『ひろゆきさん本紙取材 ひろゆきさん側から条件追加で見送り』参照)

 取材が取りやめになった理由について、ここで細かくは説明しない。ここで重要なのは、琉球新報とひろゆきが話で説明が食い違っており、ひろゆきの主張を信じた人々が少なくない数存在したことだ。

noteで流布されたColaboデマ

 もう1つ、直近の話を取り上げよう。この連載の序文でも取り上げた、女性支援団体に対するデマだ。

 デマを流布した者(たち)は、大きく分けて2種類のデマを流していた。1つは、支援団体の資金に関連するデマ、もう1つは支援団体が実際の目的を偽って政治的活動をしているのではないかというデマだ。あまりにもデマが多かったため、私はまず前者のデマに対応することとし、『部外者の立場からColaboデマを検証する』という記事を書いた。あまりにもデマが多く、その説明にも時間がかかるため、詳細は当該記事を参照していただきたい。

 検証記事に対しては好意的な反応が多かったものの、否定的なものもあった。そのなかで特に目立ったのは、私が「都合の悪い部分」を無視しているという指摘(未満の何か)だった。曰く、「Colabo批判」の中心的な論点はColaboの政治的活動に関する疑惑であり、それを無視するのはおかしい。無視をするのは、そうした重要な疑惑を否定できないからだろうと。

 結論から言えば、そもそも政治的活動「疑惑」は『「Colabo批判」の中心的な論点』ではなかった。また、政治的活動「疑惑」もデマに過ぎず、まともに議論すべき水準の批判ではなかった(『部外者の立場からColaboデマを検証する:政治活動編』を参照されたい)。だが、重要なのはそこではない。

 ここで気になったのは、資金に関連する「批判」を悉くデマだと指摘した私に対して、それでもデマを流した者が考慮に値する批判をしているのだと主張した者が1人ではなかったということだ。「批判」を信じた人々曰く(いや、実際に口に出したわけではないが)、たとえ彼がColaboについて無数のデマを流していようと、デマじゃないと信じるに足る主張もあるのだという。

 ちなみに、私の批判そのものが間違いだと指摘できたものはいなかった。

 これは恐ろしいことだ。Colaboへのいちゃもんはどう考えたってデマなのに、「いいや信用できる。いいや信用できる」と念仏のように唱えながらネットの海を徘徊するアカウントが無数に存在するのだ。ほとんどゾンビである。当事者からすれば恐ろしいなんてものではないだろう。いきなり無茶なデマを流された挙句、それを信じ込んだゾンビが大挙して襲ってくるのだから。リアルバイオハザードもといモラルハザードである。しかもゾンビと違って撃ち殺せない。彼らはいくら「論破」しても死なないのだ。

「嘘つきだが、今回は嘘ではないかもしれない」

 ひろゆきの件に立ち戻りたい。取材の取りやめについて、琉球新報とひろゆきで説明が食い違ったとき、ひろゆきの説明を信じた者が相当数いた。

 だが、問題の大元を思い出してほしい。そもそも琉球新報がひろゆきに取材を申し込んだのは、彼が辺野古の一件でデマを流布したからだ。ひろゆきの嘘から始まった問題である。彼がその後も沖縄の人々に対して差別的な発言をしたことも無視でできない。この問題で、ひろゆきは一貫して嘘と差別を発信してきた。

 一方、琉球新報は地方紙として信頼が厚い。少なくとも、産経新聞のように記事の信頼性を疑うような要素はない。琉球新報を偏っているという人もいるが、むしろ権力監視というマスコミの職責に忠実だというべきだろう。仮に偏っていたとしても、意図的に嘘を書くようなメディアだといえる証拠はない。

 嘘と差別を流布し続けたひろゆきと、地方新聞である琉球新報。この2つの説明を並べて、なぜ前者を信じてしまうのだろうか。常識で考えれば、後者の説明が事実である可能性の方が高い。

 Colaboのデマについても同様である。ある一面で多くのデマを流布した者が、同じ団体について別の一面で妥当な批判を行えると、どうして信じることが出来るのだろうか。あれほどの数のデマは、意図的か度を越して愚かでなければ流布することはできないはずだ。なぜ、そのような人物の発言を真に受けてしまうのだろうか。

誰が言ったかではなく、何を言ったかが大事?

 インターネットで定番のフレーズの1つに『誰が言ったかではなく、何を言ったかが大事』というものがある。これは一面事実だ。偉い人が言ったからという理由でその発言を妄信すべきではない。きちんと中身を精査し信用に足るかを考慮すべきだ。

 一方、このフレーズは嘘つきにも都合がいい。これまでついてきた嘘を棚に上げ、「いまここ」の発言だけに注意しろと主張できるからだ。そして、嘘つきというのは「いまここ」の発言だけはそれっぽく表現するのを得意としている。

 そして、人間というのは全知全能にはなれない。「いまここ」の発言を精査するというは実は途方もなく難しいことだ。百田尚樹の『日本国紀』は内容が強く批判されたが、歴史に明るくない私がそれを読んでもどこが問題か正直分からないだろう。前提となる正しい知識がなければ発言の精査などできないし、全てを知っている人間はいない。

 だからこそ、誰が言ったか「も」大事なのだ。発言者が信用できるかどうかはその発言の信頼性に大きくかかわる。

 常識で考えてほしい。これまで嘘を多くついてきた人物は、これからも嘘をつく可能性が高い。たまには事実を言うかもしれないが、その確率はいままで正直だった者よりずっと低い。なんてことはない確率論だ。これまでの発言の8割が嘘なら、これからの発言も8割が嘘だろう、というだけの話である。

 発言を信用できるか迷ったら、その人の過去を見ることだ。確定した時間軸を誤魔化すことはできない。どれだけ取り繕っても嘘つきだった過去は変えられないのだから。

デンジの欲望は性欲か、欠乏か

 発言者が信用できるか、出来ないか。これは非常に重要な要素だ。特に、情報に曖昧さや不確定な部分が多いときは、発言者の信頼性に頼らなければいけないことも少なくない。

 ここで思い出されるのは、最近アニメが放映されている『チェンソーマン』に関するちょっとした議論である。

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