見出し画像

【山田太郎問題】「国連論破神話」の解体#3:ネトウヨ並みの詭弁

※記事の大半は無料で読めますが、最後に有料部分が少しあります。記事に価値があると思ったらぜひ購入をお願いします。
 なお、シリーズの記事一覧は『
【山田太郎問題】序文と記事まとめ』から。


 前回までの記事『【山田太郎問題】「国連論破神話」の解体#1:ただの居直り』と『【山田太郎問題】「国連論破神話」の解体#2:「根拠なき30%」への逆ギレ』と同様に、今回も「国連特別報告者論破神話」を解体していく。おそらくこの論点は最後となるだろう。

 なお、この神話の概要については前回の記事、ならびに会見の文字起こしである『【参考】国連特別報告者マオド・ド・ブーア=ブキッキオ氏の記者会見の書き起こし』を参照のこと。

 今回は山田太郎による、ブキッキオ氏への反論と称する発言を取り上げる。

5つの「反論」

 山田太郎が「国連特別報告者論破神話」を振りかざすとき、繰り返し持ち出す以下のスライドがある。

第543回より

 ここにはブキッキオ氏の発言が5つの論点にまとめられ、あたかも山田太郎がそれぞれについて「論破」したかのように示されている。

 もちろん、その実態はあまりにも稚拙なものであった。そのことは前回の記事で論じたとおりである。5つの論点の1つ目は、いわゆる「30%発言」、日本の女子高生の13%が援助交際を行っているというものだった。だが、これに対する山田太郎らの反論は、実態把握を怠った日本政府の責任を棚上げにし、限られたリソースの中で最大限実態を把握しようと努力した人々の揚げ足を取って論難するという逆ギレでしかなかった。

 5つの論点のうち、最初の1つはすでにその問題を指摘し終えている。この記事では、残りの4つについても同様にその問題を明らかにする。

児童ポルノ犯は有罪にならない?

 2つ目の論点は、児童ポルノ犯の処遇に関するものである。山田太郎のまとめでは、ブキッキオ氏の主張は『児童ポルノ事犯を働いた人たちが有罪判決を受ける件数はあまりにも少ない』とされている。おそらく、以下の発言をまとめたのだろう。

40:51
通訳:世界各国のその法律の状況について、現場、すべて今この段階でお話しすることはできないんですけれども、あくまでも相対的比較ということで申し上げます。やはり比較すると世界の先進国に比べて、日本における加害者に対しての不処罰の状況っていうのはちょっと高いんじゃないかと言うふうに思っております。それから法律上はこういった事犯については、警察に対して事件を持ち込む時にそれほど正式ばった文書ですとか、また証拠ですとか出さなくても一応その警察は自分が選べば、こういった事犯の捜査の着手をすることができるんですけれども、それでも警察がまず躊躇の念を覚えてしまうと言うところがまずちょっと我々としてはあの理解ができない、腑に落ちないと言う点であります。また、法律上書かれている罰則規定につきましても非常に軽い形になっておりまして、せいぜいその罰則が課されたとしても、罰金だけにとどまるといったようなことが多いわけでありますし、加害者の自由を取り上げて投獄するいったようなことはほとんど起こっていないと言うことでおります。それからまたそういった事態を結局放置してしまうが結果、被害者はさらに同じような被害を受けてしまうリスクが高まるわけですし、事犯から見れば、再犯率が非常に高くなってしまうと言うことになり、どんどん虐待さらに搾取が拡大してしまうと言う状況を生みかねないということであります。また被害を受けた人はやっぱり仕返しが怖い報復が怖いということで、なかなか自分が受けた被害については口外しないということがあるのでなおさら繰り返し、同じような行為が繰り返されてしまう温床を生んでしまうと言うことであります。ということで、一応先進国比較として日本がどういう状況かと言うことをまとめて申し上げました。

【参考】国連特別報告者マオド・ド・ブーア=ブキッキオ氏の記者会見の書き起こし

 この主張に対し、山田太郎は(2016年時点での)直近3年で有罪が526名いる一方で無罪は1名だけだったこと、児童ポルノ法での起訴率が71%であったことを挙げて反論としている。

 だが、この2つの事実は反論として不十分である。

 まず、ブキッキオ氏の主張を正確に理解しなければならない。ブキッキオ氏の主張は『日本における加害者に対しての不処罰の状況っていうのはちょっと高いんじゃないか』とあるように、加害者が最終的に処罰される確率が低いというものである。この主張には2通りの意味があると解釈できるだろう。

 第一に、警察や司法機関が児童ポルノ事犯を軽視しており、捜査しない、あるいは起訴しないというという振る舞いをしているという意味である。ただ、これについては後述する論点で議論することになるだろう。

 第二に、被害が相談されないなどして加害者が検挙されないという問題である。これは性暴力、特に子供が被害者となるものでは常に問題となる側面であり、ブキッキオ氏の発言でも『なかなか自分が受けた被害については口外しない』と言及されている。

 ブキッキオ氏の主張を「論破」したいのであれば、この2つの側面から過不足なく反論しなければならない。だが、山田太郎にはそれが出来ていない。

 まず、児童ポルノ事犯で有罪を受けたものと無罪となった者の人数だが、これには情報としての価値は薄い。もちろん、無罪の人間が多すぎれば本来有罪にすべき人間を裁けていないのではないかと、司法に一定の疑念が生じる。だが、検察は一般に有罪となる見込みのあるものを起訴するのであり、有罪の人数が圧倒的に多いのは当然なので、これに情報としての価値はない。特に日本ではそうだろう。

 また、この人数は起訴された人々だけに対する情報である。そのため、司法が児童ポルノを軽視し起訴を怠っているのではないかという疑問にも、加害者が特定されず司法の場で裁けていないのではないかという疑問にも答えられるものではない。つまり、ブキッキオ氏の主張と全く噛み合っていない。

 この点、起訴率に関する議論はもう少し関連している。起訴率は起訴又は不起訴の処理がなされた人員に対する起訴されたものの割合であり、これの分母は微罪処分など一部の処分がなされたものを除く検挙人員全てであるとみなせる。(例えば、令和2年における一般刑法犯の検挙人員が約18万人、起訴率の計算に用いられる分母の人数が約17万人である)

 このため、起訴率が7割を超えるという指摘は、少なくとも検挙された児童ポルノ犯の大半が起訴されていることを示すものである。先の有罪の人数と合わせれば、起訴されたものの大半が有罪となることも示せるだろう。

 だが、この主張もブキッキオ氏の指摘に完全に応答できていない。結局、起訴率は検挙された人員に占めるものにすぎず、検挙されていないのではという懸念には何の意味も持たないためである。

児童ポルノ犯は懲役刑にならない?

 3つ目の主張は、仮に児童ポルノ犯が有罪となっても、ほとんど懲役刑とならず、罰金刑に留まるという主張である。

 これに関して、山田太郎は「裁判所資料」ではそうではないと主張する。だが問題は、彼の言う「裁判所資料」が何を指しているのか全く分からないということだ。

 一般的に、こうした状況を「エビデンスがある」と表現しない。他者が参照できないエビデンスはエビデンスとしての機能を有しない。存在しないのと同じである。

 こちらでは調査を続け、見つけ次第追記する予定である。だが、本来であればこの統計がどのようなものか明言する責任は政治家の側にあり、それを怠った時点で「まともな反論が出来ていない」と評されてもやむを得ないことははっきりと指摘しておく。

児童ポルノ犯を警察は捜査しない?

 4つ目の主張は、警察が児童ポルノ犯を捜査しないというものである。山田太郎のスライドでは『被害届が正式に出ないと警察は捜査を躊躇する』とある。これも、先に引用した部分をまとめたものだろう。

 これに対する山田太郎の反論は噴飯ものであり、「国連特別報告者論破神話」の中でも最も低質なものになっている。

 山田太郎は反論として、警察庁のヒアリングで聞いたとする関係者の主張をあげ、そのようなことはないと主張している。

 いったいどこの世界に、職務怠慢を真正面から糺されて素直に認める行政があるだろうか。警察は捜査を躊躇っているのではないかと尋ねられれば、実態にかかわらずそんなことはないと答えるに決まっているだろう。

 警察の実態は、むしろブキッキオ氏の指摘の通りである。経験レベルであれば、警察が性暴力の捜査に消極的であるという主張は枚挙にいとまがない。性暴力でなくとも同様の事例は報告されている。

 さらに、警察のこのような態度が最悪の事態を招いた事例も複数ある。桶川ストーカー事件をはじめとするストーキング犯罪がそれだ。桶川事件以降、一旦は警察の態度が是正されたが、最近ではまたぶり返しているように思われる。

 山田太郎の主張の問題点は、単に論理破綻である以上の問題を有している。表現の自由を守るうえで致命的なのは、警察の主張を全く鵜呑みにしてしまう警戒心のなさである。

 一般に、表現の自由は警察の取り締まりによって弾圧される。警察が規制の入り口であると言ってもよいかもしれない。わいせつ物として取り締まるにせよ、ビラ配りを不法侵入といちゃもんをつけるにせよ、ヤジを排除するにせよ、表現の自由が侵害されるとき大抵はその傍に警察官がいる。

 このため、表現の自由を守る戦いは、警察の実務をいかに暴走させないか、いかに抑制するかの闘いだとも言える。「法律を厳密に解釈すれば可能」という彼らの主張を否定し、それは人々の権利を侵害する行為だと釘を刺すのが市民の役割であり、何より与党議員に期待される役割であるはずだ。

 警察の一方的かつ根拠なき主張を鵜呑みにするのは、こうした役割を放棄し、表現の自由の生殺与奪を警察に丸投げしてしまう行為に等しい。いわば表現の自由の自殺、というよりはネグレクトによる虐待死を招いていると言えるだろう。守らねばならないか弱い表現の自由を放置し、警察という虐待者のもとへ晒してしまっているのだから。

 山田太郎はこの一点だけで、表現の自由を守る議員にふさわしくないと断言できる。

沖縄では家出少年は売春産業でしか生き残れない?

 最後の主張は沖縄に関するものである。これは以下の箇所をまとめたものだろう。

48:11
通訳:今回の来日を準備するにあたって、首都だけに私の訪問先とどめたくないなと言うふうに思っておりました。もちろん首都を訪問させていただく事はそれ自体興味深いことですけれども、必ずしも社会全体を反映しているものではないと言うことで、沖縄も選んだと言うことです。
(中略)
 特にあの児童の性的搾取と言う面で、その児童の買春の面でもやはり被害者の90%は女児であるわけでありまして、特にそれが、沖縄で際立っていたっていうことです。特に崩壊家庭であの生育を受けている子供たちと言うのは家庭内でアルコール薬物乱用等起こっていてもいたたまれなくなって家出をしてしまう子供たちがいるわけで、そうするとどうしても生き残って行かなくちゃいけないからたどり着く先は売春産業といったようなものになってしまうと、あくまでもこれは生き残るためにやっているわけですということで明らかに貧困が原因となってセックス産業に行ってしまうといったようなリンクが出てしまう。しかも生き残っていくためには、これ以外にないと言うことでの展開ということであります。

【参考】国連特別報告者マオド・ド・ブーア=ブキッキオ氏の記者会見の書き起こし

 山田太郎はこれに対し『売春産業以外で生きている人もいるはず』と反論する。『守り方』では、『売春産業以外で働いている人もいることなど、言うまでもないでしょう。沖縄をバカにしているとしか思えない発言です』とイキりたつが、全く持って愚鈍な反応というほかない。馬鹿はどちらであろうか。

 言うまでもなく、ブキッキオ氏は文字通り、沖縄の家出少女はただ一人の例外もなく売春産業で働いていると主張したいわけではない。常識で考えれば自明だが、『生き残っていくためには、これ以外にない』というのはただの強調表現である。山田太郎はそれを、額面通りに捉えて勝手に怒っているだけである。わざとやっているなら政治家にあるまじき不誠実さだし、意図していないなら政治家にあるまじき愚かさである。どちらにせよ政治家にふさわしい振る舞いではない。

 さらに注目したいのは、山田太郎の発言は『はず』止まりであるということだ。当然であろう。政府は実態把握などこれっぽっちもできていないのだから。ここには前回も指摘した問題が繰り返されている。山田太郎は根拠を欠いたまま、『はず』止まりの主張で、限定的であろうと沖縄の実態を把握しようと努めたブキッキオ氏に対し『沖縄ををバカにしている』などと逆ギレをしているのである。

神話からわかった山田太郎3つの問題点

 これまで「国連特別報告者論破神話」を解体してきた。この作業から、改めて山田太郎の問題点を3つ抽出することが出来た。結論から書けば、責任感を欠くこと、論証能力を欠くこと、異様なまでに攻撃的であることが問題である。

ここから先は

1,062字

¥ 300

金のない犯罪学者にコーヒーを奢ろう!金がないので泣いて喜びます。