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それをどう解釈すればいいのか?

ある人がその時どんな行動を取るかを決めてい要因は、ものすごく多い。

文化、教育、習慣、社会制度、信仰、環境、遺伝、意志、偶然、前後の出来事、余裕がある時だったかどうか、誰といる時だったか・・・などなど。思い切って考えれば、果たして行動の要因が地球で起きることの範囲で収まるのかもわかりませんよね。

あいつがこんなことをした。それは見ればわかります。でも、それをなぜしたのかはわからない。

どんなにがんばっても、ある行動の要因すべてを把握することはできないんだろうと思います。3割程度もわからないのではないでしょうか。

自分がとった行動さえ、正確に問い詰めれば「こうだからこうした」とはっきり言えるものではないはずです。

こんな当たり前のことを、僕たちは時々、いやしょっちゅう忘れてしまいます。そのために人を傷つけたり、大事な関係を自分から切ってしまったりしています。

今日はそういう話です。最終的にはどうやったら優しくなれるのかねという話になります。


誰が世界を動かしているのか?

僕は、中学くらいの頃から積極的に本を読むようになって(まだ全然ですけど)、いろんなジャンルの本を少しずつかじってきました。

狭小な読書歴の中でですがその中でも「これこそ人間の行動を決定している」という本にたくさん出会ってきました。

それでわかったのは、どうやらあらゆる分野の専門家は、自分の専門分野こそが世界を動かしてきたとか、人を動かす原理なのだと考えているようだということです。

前に9割本の世界という皮肉を込めた記事を書きましたがまさにあんな感じなのです。そこがかわいい。

まあでも、それくらいの自負がないとやっていけないのかもしれませんね。

それはともかく、おかげで中学の頃の僕はてっきり世の中は政治と軍事がすべて決めているんだと思っていました。で、地獄を見ました。当時は偏った本ばかり読んでたんです。(詳細はこちら👈)

しかし、次第に読書量も幅も増えていき、どうやら世の中も人の行動もありえないくらい複雑な仕組みだぞと気づいたんですね笑。当たり前のことですけど。


僕たちの行動を決める要因はこれだ!決定?

僕が今まで出会ってきた「人の行動はこれでほぼ説明できる」論みたいなのを列挙してみます。

進化生物学では、人は「生存に有利な行動をしている」「種を繁栄させる行動をしている」と主張しています。

脳科学では、人の行動は脳が決めると言い、脳内物質をハックせよみたいなことを言います。無意識の力を強調したりします。

行動経済学では、人はインセンティブによって突き動かされると言い、欠乏の経済学では欠乏が人の行動に大きく影響すると言います。

政治の話では政策が世の中を決めていることになっています。

偶然が支配しているだけだと言う人もいれば、習慣がその人を作るとも言う人もいて、容姿がすべてとか遺伝子が何割とか、何を食べるかがすべてとか学歴が行動に表れるなんて言う人もいますね。

オカルトにまで手を伸ばせば、秘密結社が世の中を動かし、祈り呪い背後霊が人の行動に影響を与えることになっています。

とにかくこういうのがたくさんあるんです。


とりあえず保留

さきほどの章で列挙した知識は全部甘噛みレベルなので正直なんともいえませんが、とりあえず今、人の行動について考えるとき僕はこのように考えています。

すなわち、人の行動を決める要因はあまりに無数にあり複雑なのでなんとも言えない。

この通りです。

なんとも頼りない感じですが、簡単な理解に飛びつかないというのは大事なことだと思っています。それで痛い目をみましたからね(笑)。

ここまでは理屈の話ですが、問題はこの先です。

人の行動について「ああだからこうしたんだ」とは言い切れない。そもそも因果関係の問題ですらないかもしれない。
その上で、生活の中において他人の行動や自分の行動をどう受け止めていけばいいのか?

これは信条とか姿勢の話になります。あるいは覚悟の話。


信じている、だけ

他者の行動の理由は完全にはわかりません。わかるはずもない。

でも、なぜそうしたのかを考えるのは無意味ではないと僕は思っています。あくまで自分の勝手な解釈だと理解しつつも、いろんな複雑な背景に温かく思いを馳せるほうが優しくやれます。

これは、相手の中には優しさがあり、相手もより善くありたいと思っているという前提に立って言っています。間違っているかもしれないけど、僕はそう信じている。

それで「優しく解釈しよう」というのは僕の信条ということになります。

あくまで信じていることだから、疑い出せばキリはないですし、揺らぐこともあります。痛い目を見るかもしれない。

でも、なんとか信じようと努めています。信じているにふさわしい行動を考え、悩んだりもします。

一応、あえて信じる理由をあげるなら、過去に無条件に信じてもらえたことが救いになったからとか、相手の優しさを信じきれないと理解しようという働きかけができないから、とかになると思います。

それだけだと言えばそれだけ。

だから、同じことを人に信じるのを強制はしませんし、常に間違っている可能性もあると考えています。

でも、やっぱり僕はそこにこだわっている。なぜか?

父のことがあるからです。


父のこと

僕の父は、僕が小学六年生の時に母と離婚し家を出て行きました。家を出て行く時、父が僕に向かって吐き捨てた言葉があります。

「お前は生まれてくるはずじゃなかった」

というものです。

これはかなり衝撃的なことでして、高校の時に書いた創作文にそのまま主人公のエピソードとして書いてあるので引用します。ちょっと長いです。

ある日、夜中に目を覚ますと大人の怒鳴り声が聞こえた。父の声だと気づいた。父と母が喧嘩していた。親友とそのママが喧嘩していたのを思い出した。
「これからあの子が高校行って大学行ってっていう時に・・・あの子がまた病気でもしたらどうするの・・・ねえ、あなたを見てるから、あの子最近やる気がないんじゃないの?」子どもを諭すように母が何か言っていた。
よく聞こえなかったが、お金の話をしていることが多かった。時々、母が僕のことを話に出していた。最近だるそうにしているのを自分たちのせいだと思っているようだった。同級生に肩を組まれるのが憂うつなだけだ。
両親の喧嘩をひりひりと感じながら、僕は涙を零していた。久々のことだった。なんだか悔しくて、目を瞑って泣いた。
その後も僕は何度か夜中まで寝たふりをして、両親の話す内容を聞こうとしていた。二人の言い争いは罵声に発展するまでは行かず、いつも決まって子どもの前では絶対喧嘩をしないように誓って終わった。
ただある時、父が何かをボソッと打ち明けて、母が話の途中から泣いていた。
明くる日の夜、母は僕を呼んで話を聞かせた。

「今、父さんにはものすごい借金があるの。父さんはギャンブル依存症っていう病気で、ゲームにお金を使う為に平気で嘘をつくの。あなたには言ってなかったけれど、今までにも何回も母さんが貯めてたお金を、嘘をついて取っていったの。借金が見つかったのは今回が二度目。でもこれは病気だから、あなたがやったみたいに治療したら治るから。だから、母さんはもう一回だけ父さんを信じようって思ってる」
僕は話を聞きながら自分の人生が紛れもなく悪い方へと向かっているのを悟った。
そもそもなんで父さんはギャンブルに手を出したんだろうと考えた。父親は家族を守ることに集中しないといけないんじゃなかったの?父さんはそんなにヒドイ人だったっけ?
「父さんね、小さい頃、家族とずっと放ったらかしにされてたんだって・・・」

僕は小学校低学年の時は足の病気で車椅子生活をしていました。その入院生活の時にも父はほとんどお見舞いに来ることはありませんでした。

父の両親、つまり僕の祖父母は洋服ブランドの会社を作って成功し、お金は沢山あった。二人は四人の子ども達にいつもお金だけ置いていって、遊び歩いていた。子ども達の知らない間に海外旅行に行って二、三週間帰ってこないこともあったそうだ。
 父以外の兄弟はみなかなり年上で、早々に家を出て行っていた。まだ小学生の父一人だけの生活は悲惨だった。
 台所に溜まった食器にはウジがわき、トイレと風呂場は詰まって汚水の臭いがした。
父は、自分の部屋で一人、毛布にくるまってゲームをして過ごした。誰かが自分を救ってくれるのを祈りながら。
結局父の両親は事業に失敗し大量の借金を抱え、それでも遊ぶのをやめられなかった。
中学の男の子だけがいる家に借金取りが毎日のようにやって来て、ドアを叩き怒鳴り散らした。
高校生になってようやく、一人暮らしをしていた兄に連れられ家を出た。そして両親の真似をするように、兄と共にパチンコをしに遊びに出かける日を過ごした。パチンコを続けるために仕事を始めたようなものだった。
就いた仕事は洋服店の店員だった。そこで母と出逢ったのだ。
「 ・・・・だからね、わかる?父さんは親子の関係がどんなものかわからないで育ったの。足りない所もあるけど、頑張ってるの。お母さんは信じたい。」
母が涙ながらに話すのを見て、僕は父を悪者にはできなかった。祖父母だって、大好きだった。父はかわいそうな人だった。
もしかしたら、母と出会ってからはゲームをやめてたんじゃないか、とふと思った。母の愛情を一身に集める僕が生まれるまでは。
母の教育ママっぷりを考えると、僕が母を奪ってしまったのだと容易に想像できた。僕が自分から勉強をしていれば母さんが僕につきっきりでいることはなかった。一人で入院できていれば父さんは家に一人でいることはなかったろう。
僕のせいだ。僕がちゃんと勉強して、もっと賢ければよかったんだ。
僕は一人で入院するべきだったんだ。

中学の時は特にこんな感じで自分を責めていたように思います。当時の日記が残っているのですが、本当に重たい内容ばかりです。

父は誰が勧めても頑として心療内科には行かなかった。
間もなく父が三度目の借金を作ったことが発覚した。二度目の倍くらい作ってきたらしい。そして両親は離婚した。父は出て行く時、「お前なんか生まれてくるはずじゃなかった」と、僕に怒鳴った。
アパート中に響き渡るほどに強くドアを閉めて、父は出ていった。僕の心が壊れてしまうより早く母が泣き崩れて、僕は母の背中をさするよりほかなかった。
「お前なんか生まれてくるはずじゃなかった」という声は頭から抜けなかった。
次の日から母は何事もなかったように僕を学校に送り出した。惨めな芝居だった。母は前々から心療内科に通っていたのだが、翌週から薬の量が異様に増えていた。僕しかこの哀れな人を安心させられないのだと感じて震えた。背負うには重すぎる。僕には勉強以外に彼女を支える足がなかった。勉強だけに、良い子でいることだけに、集中しないと。泣く暇なんてなかった。むしろ不自然に興奮すらしていた。

小説中ではこの後主人公はさらにどん底へ突き落とされるのですが、現実にはこの辺りが底です。

長いこと重い話に付き合わせてしまいました。

気を取り直して。

さて、このようなことがあったわけですが、これが、僕が人を優しく解釈しようとする根源のエピソードだと思っています。

母が父の過去について説明してくれたことと、僕がその後父の病気のことを含めいろんな知識を本から得たこと、これによって僕は、父の中にある優しさや恐れや怒りを想像することができ、父を嫌いになることも憎むこともなかったんです。

今だって、いつか父とまた会って笑って語り合える日が来るのを信じています。僕が父を信じることで、なにか父にとって価値あることが発生するんだろうと考えています。

あなたの目にはどう映るかわかりませんが、その辺の感覚が、僕が人の行動に純粋な悪意を想定しないことにつながり、なるべく優しく解釈したい、そうしてより理解に近づきたいという信念に変わっていったのかなと思います。そうじゃないかもしれませんけどね笑


あなたは何を信じたいですか?

さて、そろそろ締めくくります。今日はいろいろ喋り過ぎてしまいました。

読者を信じているので大丈夫だと思って書いてます(笑)

人の行動をどう解釈するか、もっと言うと、人の善性を信じるか、これが今日のテーマでした。

ある人がある行動をした背景はあまりに複雑で、要因は膨大で、僕らが処理できるのはほんの一部でしかありません。だからなぜそうしたかはわからないという他ない。

しかし、僕らは放っておいても勝手に解釈をしちゃいます。

なんなら、つい解釈と客観的事実を混同したりします。自分の解釈に振り回されて、自分の行動に変化が出て、それがまた相手の反応を変える要因の一つにもなります。

というわけで、そもそも自分の解釈と客観的事実は切り分けないとまずいと思います。

その上で、物事を私はどう解釈するかという「信念」についてはよく考えた方がいいのではないでしょうか。


自分は、一体何を信じたいのか?
信じることには責任とか覚悟が伴いますが、
自分にとってのそれはどんなものなのか?


僕は、人の優しさを信じようと思っています。「優しく解釈する」のはその責任なのかなと考えています。

とまあ口ではなんとも言えますが、生活の中で反映させるのは難しいですね。葛藤することもしょっちゅうです。

あえて優しく解釈しようと努めないとあえて自分から優しくしようとすることができないのが僕の弱いところなのです。まだまだとても器が小さいのが自分で痛いほどよくわかります。

だから、陳腐な気づきで終わらせてしまって申し訳ないのですが、もっと経験して、もっと学んでいきたいなと思います。



今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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