信じることと考えること

『スマホを捨てたい子供たち』というなかなか目を惹くタイトルの本から考えたことを綴ったこちらの記事に触発されて考えたことを書きます。

この記事では、情報化によって、知能に偏重し飽くなき効率化の追求をやめない現代の問題について思うところをすごくわかりやすく具体的に書いてあります。


脳化した世界

この記事で主張されているような問題に僕が初めて出会ったのは、養老さんの壁シリーズだったと記憶しています。

たしか養老さんの壁シリーズを読むようになってから、本ばかり読んで得意になっている自分を猛烈に反省したし、都市とか情報社会を批判的な目でも捉えられるようになりました。

都市化とか情報化の問題を、養老さんは「脳化」という言葉で説明していました。当時の僕には強烈だったので覚えています。


脳はわからないことが不安なので、単純な理解「ああすればこうなる」という因果に全てを落とし込もうとするんですね。これが意識の力だと。

ところが、自然は「ああすればこうなる」が成り立たない世界です。理不尽だったり、すごく複雑だったりすることが溢れています。

だから、脳に合わせてとことん自然を排していこうというのが都市化とか情報化の流れなんですよね。結果、今都会に行くと自然物はほとんどありません。街路樹は人工物ではありませんが、全て人間の意識によって配置され管理されています。

洋服を着る、化粧する、写真を盛るのも脳化と見ることができます。体という自然物を排しているのです。生まれるとか死ぬのが病院になっているのも脳化です。

こうした脳化の流れが究極的に進んだ社会がバーチャル世界なわけです。


都会人の問題

人間が何のために生き、なぜ死んでいくのかといった問題はそもそも「ああすれば、こうなる」と考えることはできません(だから排除しようとしてきたのでした)。

その前提を現代人は見失ってやいないか、養老さんは問題提起されたんですね。

何千万人というヒトが暮らす都市に、指1本死体1つ落ちていないことが果たして当たり前なのかと。ここまで徹底して自然を排除していることが、現代社会を様々に行き詰まらせている要因なのではないだろうかと。

この辺があびさんの言っている効率化ばかり求めている状態の話と似ているのかなと感じました。


「都会人」とはどのような人をいうのか?

都会人は未来を信じることをやめる人たちである。すべてを意識化し、計算するからである。意識化された未来は、もはや未来ではない。それは現在なのである。
養老孟司『「都市主義」の限界』

都市化された社会では人はものを考えなくなります。何が起こるかわからないという不安から解放されたからです。これが、思い通りに動くことばかり囲まれることの弊害です。

これを縮退という概念から考えてまとめたのが先月書いたこちらの長い長い記事です。

他にも、ナシーム・ニコラス・タレブはこういう現象を「観光客化」と呼んで批判していました。「人間を機械的で単純な反応を返す、詳しいマニュアルつきの洗濯機のものとして扱う」ような現象のことです。脳化と縮退とだいたい同じですね。


都市(現代人)から消えたもの

脳化した社会、つまり「ああすれば、こうなる」という社会から消え行くのはヒトの「覚悟」だと養老さんは主張します。

覚悟とは、どうなるか分からない、先行き不透明でも何とかしようという気持ちですね。コントロールできないものに向き合い続ける態度というのでしょうか。

僕は、この姿勢を植物を育てたりする中でよく考えました。植物は、水と肥料を同じ量ずつ与えれば育つという単純なものではないんですね。個体差もあって、人工物とは違います。急に枯れたり病気になったりもしますし、台風が来るのはどうにもできません。

そういう理不尽な事態に直面した時に、もう一度試行錯誤を始められるか、やっていることを信じていじくり回し続けられるかどうかが覚悟だと思います。信念と言ってもいいかもしれません。

今月の僕の考え事のテーマは「信じる」ということなのですが、まさにそれに重なってくる話題です。

昨日述べたように、現実と首尾一貫して整合しており、すべてに合理的に説明がついて納得できてしまうようなことに関しては、積極的な意味での信じるか信じないかという問題は現れることすらありません。

客観的で筋道立った根拠がないことについて「信じる」と言うのですから「信じる」ことには絶えず揺さぶりがかかることになります。

それでも信じる、それが覚悟と言えるのではないでしょうか?


信じることと責任

信ずるということは、責任を取ることです。(略)。信ずるという力を失うと、人間は責任を取らなくなるのです。そうすると人間は集団的になるのです。

と、小林秀雄の『学生との対話』にありました。

信じるというのは個人的な感覚的な問題です。だから責任がある、と言うのです。

僕らは、人と同じように考えることはできても、同じように信じることはまずできません。ニュアンスがあるからです。一方、考えることは論理だから言葉にして共有しやすい。

信じるというのと考えるというのは地続きになっています。

信じることなしに考えるということはありえません。根底に信じているものがあって、そこから考えるという行為が始動するはずだからです。

ところが、信じていることに自覚のない人は、自分のやることや考えることの根拠(信じていること)が当然のものだとしてまったく疑っていないのではないか、というのが僕の見立てです。そういう人たちにとっての自分の主張は、当然の前提から論理的に導かれるものです。責任がないのです。

「自分の信じていることに過ぎない」とわかっている人は、もう少し謙虚になるだろうし寛容になるんじゃないかと思います。イデオロギーで徒党を組んだりもしないでしょう。そして、自分の言うことに責任を持ち、身銭を切ることだと思うのです。


直覚する感性

考えるというのは思考力の問題ですが、信じるというのは感性の問題という気がします。たぶんそうでしょう。

小林秀雄さんは、分析から直覚に行く道はなく、直覚から分析に至るのだと述べていました。彼は棋士を例に説明しています。

将棋だってそうでしょう。プロはパッと直覚するんです。木村義雄八段が書いていたが、プロは二時間も考える、あれは手を考えているのではない。パッと直覚した手が果たして正しいか、そこを分析しているのです。こうして長時間かけて分析し、やはりこれだとなって直覚した手を指すのです。


また、この前メンタリストのDaiGoさんが言っていたことですが、直感は実はかなり頼りになります。頼りにならない場合というのもあるのですが、侮れない力であることは確かです。

じゃあ直感だけで動けばいいかというともちろんそうでもなく、直感した後に分析することが必要なんですね。直感の後に洞察があると。ほら、小林秀雄と同じことを言っています。

たしかに、数学や物理の歴史上の偉大な発見が直感を確かめる過程だったという話はよく聞きます。はじめに完成形が見えて、それを信じて理屈で詰めていったというものです。

僕の大好きなBBCの『SHERLOCK』というドラマシリーズでも、ホームズはまず何かを直感し後から理屈が追いついてきます。それが彼の推理なのです。


終わりに

直感は、多様な経験や長年の探索の結果磨かれていくものだそうです。

最近の僕はもっぱら家にこもっていて、読書の経験ばかりが広がっているので富山に戻ったらまた活発に何か挑戦しようかと思います。

書くことについてはこれからもずっと探求し続けることと思います。半年刻みくらいで僕が書くのを追っかけていると、面白いことが観察できるのではないでしょうか笑

僕の直感がもっと鋭くなり、僕の文章力がもっと上がれば、さらにみなさんを楽しませ勇気付けられることと信じてやっていこうと思います。

みなさんは、これからも面白がっていただける限りは僕の文章をよろしくお願いします。

ではでは、

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。


感謝

おかげさまで、つい最近フォロワーが350人になりました。読んでいただいているみなさん、ありがとうございます。

そして、今回の記事はあびさんの『スマホを捨てたい子どもたち』をきっかけに書き上げることができたのでした。ありがとうございました!

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