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血筋絶やさん土持氏 その①

高千穂町内、特に岩戸地区でよく見られる土持氏。

友人、知人にもその名の人がいますが、ある時Googleマップで、違う理由で探していた所、たまたま見つけた土持神社。

どういった経緯があるのか気になり、お参りに行ってみた。

先日土持神社の大祭が行われ、私も参加させていただいた。

土持氏は別に田部という姓も持ち、宇佐神宮でも宇佐、大神、漆間、田部と4詞官の1人である。

29代欽明天皇の31年庚寅年、宇佐八幡宮建立の際、18代反正天皇5世の孫、直彦宿弥が造営使として宇佐に入られた。

宮地の土が夜毎に崩れて、なかなか作業が進まない。

そこで、勅使自ら着衣の袖に宮中の土を少し包み、それを崩れた個所に埋め、土台を築き、その土台も崩れなかったということで、朝廷より姓を賜り、且つ豊前国も、宛てがわれたという。

直彦3世の孫より武士となり、田部信連と名乗った。

田部信連の13世の孫は宇佐信氏というが、その弟土持信村が日向国臼杵郡司に任ぜられ日向国に入国された。

今の日向市、富高に住まわしたので、富高と名乗っていく。

信村の子は門川に住み、その子は門川氏を名乗っていく。

その土地に住む氏族がその土地の名を名乗る事は多い時代である。

土持信村の6世の孫景綱は、大隈、日向国内の乱を鎮定した功績により、日向国内で、県(あがた・今の延岡)、新納(今の東・西・南・北郷村付近)、財部(高鍋)、諸県の地を賜り、土持一族はこれらの地方に配した。

日向国大半を7人の一族が納めた為、「土持7頭」と呼ばれた。

延稜世鑑などによると、清和天皇の貞観元年(859)に景綱が三河国(今の愛知県東部)に移封され、その際、高千穂の三田井氏が土持氏に代わって日向北部を統治したとあるが、後に三田井を名乗る初代高千穂太郎政次が大神氏より養子で入られるのはその100年後なので、この三田井氏は一体誰なのか?という疑問点と世代がバラバラなようなので、不確かさと、三田井氏との、関わりが謎ということである。

大神氏はもしかしたら、もう少し早く高千穂へ入ってきており、宇佐詞官としての繋がりもあっただろうから、その繋がりだったのかもしれない。

再び土持氏が日向国へ戻られたのは、実に300年後、栄妙(よしただ)が延岡城の初代城主となるのは、保元元年(1156)9月、県の庄に住んだ。

貞応2年(1223)宣綱と名を改めた。

その宣綱の子が、景綱と道綱で、景綱の子が秀綱で、その子孫が後の富高氏、塩見氏、馬原氏であるという。

※ 系図が年代や名前も違うそうなので、解釈するには難しいらしく、ズレが生じるのはご了承いただきたい。

今の延岡には土持一族の拠点城跡が3つあるが、井上城、西階城(丸山城とも言う)、松尾城がある。

立地の条件などから、最後の松尾城が日向随一の居城である。

面白いチャンネルを見つけたので貼らさせていただく。


西階城しか行ったことがないので、いつか登ってみたい。

次回へ続く

参考文献
高千穂太平記  西川功著
日向戦国史 土持一族の光芒   荒木栄司著
日向戦国武将物語 土持戦記 佐野量幸著
土持神社大祭記念講話 より

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