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高千穂八十八社【尾仲野神社】

高千穂神社を総社とする高千穂八十八社の1つ、【尾仲野神社】を紹介する。(延宝2年神明帳より)

※ 時代によって八十八社に加えられたり、無かったりする場合もある。

熊本県高森町草部、大仲野バス停を高千穂から見て左手に入った所にひっそりとある。

佐藤光俊さんの高千穂八十八社の本によると、御霊大明神、尾中野天神となっている。

所祭神は不明とある。

草部村小史によると、草部と高千穂堺の峠の平は原野で萱切り場であったという。永禄8年(1565)、草部の2人の者が高千穂勢に作業を妨害された事が発端となり、境目争いが生じた。

高千穂への掛け合いが不成立となり、草部郷の有志36輩が阿蘇山の行者方那羅延坊に属する山伏の【養福坊】に祈祷を依頼した。

依頼文には勝利のお礼に草部郷中に住むものは貴賎貧福の差別なく【養福坊】の檀家となる旨が書かれていた。

そこで、【養福坊】は大仲野に祭壇を設け21日間祈祷を続けたという。

満願の日に掛け合いに行くと、高千穂勢は恐れをなし、草部の要求を受け入れてた。

その一方で高千穂側も修験者に祈祷を頼み、草部の下切前鶴の湧水を高千穂側にとってしまったという言い伝えもあるという。

山伏の祈祷力にいかに強い信頼、帰依があったのかを知る事ができる。

さて、このご祈祷場所がもしかしたら、この尾仲野神社ではないだろうか??

イチョウの木が聳え立つ。

これを目印とすると分かりやすい。

ちなみに、高千穂郷八十八社の中で、肥後内では、他に草部吉見神社、幣立神社も加えられているものもある。

大仲野の手前は岩神地区で、明治の初年まで高千穂と熊本の境として、関所があった場所でもある。

これらからも分かるように、ちょうど高千穂、草部の境であり、以前は境界線の争いはあったのだろうと確信する事ができると思う。

高千穂町田原の今狩地区にも同じ名前の社がある。

ただし、この辺では(おちゅうの)という。

社の下には尾中野天神堂移転と書いてあり、始め私はここへ移したのかと思ったが、恐らく別だろう。

ただ、尾仲野から修験関係で勧請し、いつの間にか呼び名が変わったという可能性もあるのかもしれない!?

参考文献
佐藤光俊編集 日本民族発祥の地・高千穂郷八十八社名録
熊本歴史学研究会 史叢


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