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大火を免れた地蔵尊 集雲山龍泉寺

大友宗麟勢は豊後より日向国、縣を目指した際、高千穂側から入ってきた別動隊は町内の寺社仏閣を焼き払ったという。

大友宗麟は熱心なキリスト教で、キリスト以外には神仏はないという考えにより、その他の寺社仏閣は邪教であると、縣までの道筋の寺社仏閣を焼き払っている。

町内の主な個所は、熊野神社、植野八幡社、二上神社、今山寺、鶏足寺、そして今回取り上げた龍泉寺である。

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看板にもあるように、開山は仁皇82代鳥羽上皇の第3皇子出家得度された寒厳義尹鳳凰禅師(永平寺第4祖)と伝えられている。

開基は三田井氏で、東西2町南北4町の境内に山門、仏殿、禅堂、庫裡、衆寮、浴室、東司の七堂伽藍を有し、末寺七ヶ寺を持つ大寺院だったという。

町という単位は、歩数でおよそ100歩であり、だいたい100メートルといったところ。

つまり、東西約200メートル、南北約400メートルとかなり広範囲だったようだ。

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龍泉寺より道路を挟んで約100メートル行くと後で説明する地蔵菩薩が坐す地蔵堂があるが、今では別々に存在しているが、当時は一つの境内であったことがわかる。それくらい広かったと思われる。


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本堂に戻ると、県指定重要文化財にもなっている千手観音菩薩坐像と不動明王、毘沙門天の脇侍像がある。これは三尊一具の像として同時に作られたと思われる。

大友軍は吉村惣右衛門種供の玄武城を落とした後、龍泉寺にて休憩した。

出発にあたって、火をかけられたくさん火難にあう中、地蔵堂に坐していた地蔵堂や千手観音像とその脇侍は免れた。

兵たちは「これは将軍地蔵だ」と言って畏怖したという。

その後も3度にわたる大火にて、記録はほぼすべて焼失してしまったが、この像は免れたという。

火災後は仮堂で雨風をしのぎながら法会を行ってきたが、8世儀臥雲研立和尚と9世白外文猷和尚の2世にわたり、小規模ながらも山門兼鐘楼室、本堂、庫裡、観音堂、地蔵堂が再建された。

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こうして、現在でも火伏地蔵としてたくさんの人に崇められている。

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本堂の横には、いくつも五輪塔が並ぶ。歴代の住職のお墓だろうか?

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神之水用水の水源地にもなっており、水も豊富な場所であった。

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睡蓮の花も咲きます。


さて、祖母山信仰である、祖母嶽神社には八方に下宮があり、その別当寺として、今の四季見原キャンプ場がある親父山には樒原東福寺があった。

下宮の一つ、上野の関宮は、祖母山というよりかは、祖母山にもつながる、親父山信仰から、その下宮とされたのではないかという。

東福寺は、土呂久鉱山を開発した森田三弥が祀ったという。

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岩戸五ヶ村、泉福寺にある森田三弥のお墓。


その東福寺が退転のときに、そのご本尊であったかもしれないのが、今龍泉寺にある地蔵菩薩。

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そして、佐藤道元が住んでいたとされる王農内にある薬師像。

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この中央の薬師像と兄弟と言われているのが、田井本にある薬師像。

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この3体が東福寺より降られたといわれる。

田井本のお堂の前にある五輪塔。

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これは、タレントの指原莉乃さんのご先祖かもしれない指原一族の墓とされる。

指原氏は、吉村氏が玄武城に入城する前に玄武城にいたとされる氏族で大友の命で銀の採掘にあたったという。

その後、吉村との争いに敗れ、豊後へ帰り、それを聞いた宗麟が怒り玄武城を攻めたという説もある。

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高千穂八十八社の一つ、赤川権現。

この堂にある姫神の像は顔が意図的に消されている可能性があり、指原一族と関係があるのかもしれない。

古文書に記載されている「赤野山峰上り指原山」とあり、赤野山が赤川浦岳であり、その上となると玄武山であり、玄武山=指原山ではないかと歴史家の安在氏は言う。


今回、龍泉寺を案内してくださった現住職に感謝する。

またその段取りをしてくださった佐藤さんにも感謝する。


参考文献

高千穂町史

高千穂故事伝説・民話  高千穂町老人クラブ連合会 高千穂町社会福祉協議会

高千穂太平記  西川功著

高千穂村々探訪 甲斐畩常著

かるめご 西臼杵の姓氏より 安在一夫

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