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この世で一番美しいのはだーれ?

美しいものに遭遇した時
その美しいと感じた対象物自体が美しいのだと何の疑いもなくそう思う。
つまり
その美しいと感じた対象物が
美しいのだと認識する。
・・・
おっとっと兄貴。
同じこと綴ってますぜ。
そう一人で突っ込まれましたね。
つまりってつまれてないよ、同じこと言ってるだけじゃないのよってね。

そうなのよ。
あなたのおっしゃる通り同じことを
綴らさせて頂きました。
大事なことは何度でも言いましょうって
そう習ったんです。
コピペじゃないですのよ。大事なことだもの。
大事なことはコピペじゃダメですよって
そう習ったんです。

さてさて、ではでは
脱線して歪んでしまった口太郎の口を
本線へ戻しましょう。

例えば
とあるコーヒーショップで
運ばれてきたコーヒーカップが
とても美しいものだとあなたが感じた。
そう仮定しましょう。
そしてその体験をお友達にお話しした。
そうまた仮定しましょうか。

え。お友達がいないですって?
あらま。
・・・

私「今日コーヒー屋に足を向けて歩いて行ったんだけどさ、そこで使ってたコーヒーカップがまじやばいくらい美しくてさ、まじやばかったんだよね」
友「えーマジヤバじゃん。今度さ、そのコーヒーショップ私も連れてってよ。私もそのコーヒーという液体よりも美しさに満ち溢れたコーヒーカップってのを拝んでみたいからさ」
私「だるいけどいいよ」
友「だるいのにありがとう」

だいたいこのような会話が
展開されるのだろう。
美しさの"きっかけ"になったにすぎない対象物を中心とした会話に花が咲くのだろう。
どんな色?どんな形?大きさは?高そう?
そのカップは買えるのか?ならば値段はいくらなのか。
えーたっかーいとかなんだとか。
見ればわかるよとか言っちゃったり。

しかし
時折こんな質問が
教養に満ちた人から漏れ出ることがある。

「そのコーヒーカップを
なんであんたは美しいと思ったの?」

これこそが美しさの本質だ。

万人が美しいと思う対象物はこの世にはない。
もしも万人が美しいと思う
コーヒーカップがこの世にあるならば
そんなときは口太郎、
すぐさま美しい土下座を披露するだろう。
万人が美しいと思う土下座をである。

しかしそんなものはこの世にない。

そんな土下座も
そしてそんなコーヒーカップも
この世には存在しない。
存在するのは各々が持つ美しいと思う気持ち。それだけ。である。
美しさとは様々で
だからこそこの世には美しいと
世間に叫び散らかす物事で溢れかえる。
そんな溢れかえった美しいと主張する対象物の中から、あなたは美しいと思ったものだけに共感し、その共感した対象物とあなたの間だけに美しさがその瞬間から実在する。

美しさとはそんなあわいに"ある"ものなのだ。

友「そのコーヒーカップをなんであんたは美しいと思ったの?」
友「あんたが美しいと思ったそのコーヒーカップ、私が何て思うか気になるからさ。今度そこに私も連れてってよ」
私「いいよ。今度私が美しいと思ったコーヒーカップ、一緒に眺めようね」






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