この歌を君に?この詩を君に?(作詞・作曲:田村秀之)

 田村秀之と申します。いっつも芸術の分野的横断について考えています。

 カンバスに墨汁で楽譜書いたっていいじゃないか。なんで高校の芸術科目は美術・音楽・書道の中から一つ選択なんだ。全部やってこそ意味があるはずだ。そして文芸は選択の余地すら無い。
 ここは文芸をメインにした団体だから、文芸に焦点を当てて言うと、どの芸術も文芸を含みうる思う。必ず含むわけではないが、特定の芸術作品に対する自分の思いを言語化するプロセス等はその一例である(それに意味があるかはともかく)。

 もっと分かりやすい例は「音楽の歌詞」だろう。
 近年の作詞家の中には「メッセージソング」しか書けない人が多い。むしろ一昔前の、世界観とストーリーを伴う歌詞は斬新に見えるんだそうだ。そういうふうに松本隆氏がラジオで言っていたのを聴いた記憶がある。
 歌詞を書くだけなら、これを文学の領域の延長だと考えるのも無理はない。しかし私は、この場合「文学は音楽に従属する」と考える。楽曲単体を評価する時に、ただ「歌詞がいい」とだけ言うほど無意味な発言はないと思う。それだったら詩を読めば良いし、曲にすることを意識しなくてすむ分、ただの詩の方が無理のない表現で自由に書けるはずだとすら思う。すなわち、歌詞を味わいたいだけなら、音楽である必要がない(もっとも、ただの詩であっても、それを読み上げて聞かせてくれるコンテンツは日本にはそれほど出回っていないが)。
 しかし私は、音楽は全てインストゥルメンタルでいいと言いたい訳ではない。
 歌詞がある楽曲ならば、曲と歌詞は一体であるべきだと考えている。しかし私は、メッセージソングにはそれらが一体となっているものは少ないと感じる。失礼だが、「良さげな詩」に「良さげなメロディ」をくっつけているだけのものが多い印象がある。明るいメッセージなら長調、暗いメッセージなら短調、くらいの別しかないように思う。もちろん、悲しい歌詞を明るい曲で歌い上げることもあり、それには私もこだわりを感じる。しかし、私がこれをメッセージソングの傾向だと推定するのは、メッセージには「世界観」がないと思うからだ。世界観とはすなわち、曲で表現したいものである。楽曲を聴くとき、我々はその世界に浸る。楽曲が表現したい世界観を「野暮ったくなく」説明するものが歌詞だと思う。

 具体例として、英国のロックグループ、ピンク・フロイドの没落を挙げよう。
 プログレッシブ・ロックの分野におけるもっとも偉大なバンドの一つと言われた彼らは、後に分裂を経て、今の若者には知る人も少ない。
 コンセプトアルバム「ザ・ウォール」のヒットの後、歌詞によるメッセージ(風刺)を重視した「自称実質的リーダー」のロジャー・ウォーターズと、音楽性を重視したリチャード・ライトとが対立した。結果的にロジャーが脱退し、ピンク・フロイドは残りの三人で活動することとなった。
 その結果として、ロジャーは音楽的感性に長けた仲間を失ったし、ピンク・フロイドは偉大なコンセプトメーカーを失った。そして偉大なプログレバンドたるピンク・フロイドは消滅した。中途半端なアーティスト(ロジャー)と、中途半端なバンド(ピンク・フロイド)が後に残ったのである。

 メッセージソングが受ける世の中なのだから、それにも需要があるのは承知だ。明るい曲調で励ましてもらえるもの、として楽曲を捉える捉え方を私は否定しない。
 ただ、私は一昔前の楽曲が好きで、それが美しいと思う。ここでは、今と昔の楽曲を比べ、昔の楽曲に肩入れしつつ、何が違うのかを語らんとしているのである。

 好みの問題でもあるし、異論もあろう。だが、音楽の好みの傾向そのものを考えるのにも、それなりに役立つ視点だとは思う。

 好きなレトリバーはゴールデンレトリバー、いつでも自信過剰気味の、田村秀之でした。またの機会にお会いしましょう。
 (田村秀之)

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