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『エロスの巨人』第一章

第一章  
 
 不可能なことだってある。電車を追いかけようと、プラットホームの上を疾走する若い男を車窓から見ながら、僕はそう思った。
「不可能なことはない」は師匠の口癖だが、師匠だって電車より足が速いわけではない。
 とすれば、僕がミハイル・カラエフ選手に勝つこともやはり不可能だ。204センチ100キロの巨漢に対して、173センチ75キロの僕は何ができるというのだ? 地方大会でそれなりの実績を残していることは事実だし、全日本選手権大会で上位に入賞する寺崎選手の攻撃を最後まで倒れずに耐え忍んだのも誇りに思って良いのだろうけれど、熊が立ち上がったような体躯をしたあのロシア人に勝つどころか、生きて帰られる自信がない。
 約一ヵ月半後に、初めて出場する全日本選手権大会が控えていた。そして、一回戦でロシアから参戦する、昨年度の世界大会でベスト8に入賞したカラエフ選手と対戦することになっていた。
 出場が決まって以来、師匠は僕に猛練習をさせていた。
「奇跡を起こせ」とサンドバッグで技を打ち込みながら、何度師匠の口から聞こえたかもわからない。だが、その頃の僕はもう、奇跡というものを信じなくなっていた。

少しばかり先走ってしまったようだ。とりあえずは自己紹介から始めないと、何がなんだかわからないはずだ。
僕は和尻慶示と言い、年齢は24。極真空手暦は6年。今から約二年前、空手に専念するために道場職員になったのがついこの間のように思える。コツコツと練習を続けて、道場内では先輩の葉山と並んで強豪になり、道場の看板選手として様々な大会に出場している。
 人は僕を不器用だと言う。自分でもやはり、不器用だと思っている。身体能力も高い方ではない。本来はスポーツ選手になるために生まれてきた人間ではない。だが、持久力だけは人よりあるし、性格も粘り強い。殴られても蹴られても構わず前に出るタイプだ。そういう選手は観客に愛される傾向にあるが、僕にはそれだけのカリスマがない。
 
 そして、僕は今電車に乗っている。プラットホームはもう見えない。だが、若い男はまだ頭から離れない。元気溢れる笑顔で電車を追いかけるその姿が羨ましかった。かつて、僕も同じような笑顔で空手の稽古に励んでいたはずだ。だが、スコールの雨が突然に止むように、僕の空手に対する情熱は、いつのまにか止んでいた。
 それは、凛のせいだったのかもしれない。二つ年下の彼女と同棲するようになってから、そろそろ一年が経とうとしていた。凛は、新鮮な洗濯物の香りがするような、清楚で可愛いらしい、幼い感じのする娘だった。道場で遅い時間までサンドバッグを叩くよりは、少しでも早く家に帰って彼女と一緒に時間を過ごしたいと思うようになっていた。
師匠は僕のその心の変化に気がつかす、「最近のお前の練習の仕方は少し淡白すぎる」と言うだけだった。

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