見出し画像

今、僕たちに必要なのはデッサンだ。

デッサンときいて何を思い浮かべるだろうか?
デッサン=「絵」

ざっくりと、こういうイメージだと思います。

僕が考えるデッサンの結論は
=「想うこと。」

今回はそういう話をします。


こういう経験はありませんか?
同じ人の話を、一緒に聴いていたのに
なぜかあの人は話の背景まで知っている。

なんで?どうして?実は事前に知ってたの?

同じものを見聞きしたはずなのに、受け取る情報の量がぜんぜん違った。
という経験がありませんか?

前時代にくらべ、より多くコミュニケーションの手段がうまれ
情報にあふれるこの社会で僕たちは生きています。

そして溢れた情報を正しく捉えられないことですれ違ってしまう。
コミュニケーションの不協和音や摩擦が
至る所で大きな亀裂を生んでいる時代でもあります。

情報はこれから未来に向けて減ることはありません
ただただ増えていきます。

そんな今でも、未来でも、情報を適切に読み解き
コミュニケーションの手助けをしてくれるのがデッサン(観察力)であり「読解力」です。

世界を立体的に観察できる瞳を持つことで僕たちのコミュニケーションは
安心できる距離感で、より深く、より呼吸のしやすい世界になっていきます。

観察する力は世界を立体的にするだけでなく、色彩豊かな景色に変えてくれます。
その景色を隅々まで瑞々しく人に伝えたり、読み取ったり出来たなら
大切な人を想い、優しくできるんじゃないかと思うのです。

僕たちは忘れられない今日を迎え、忘れられない明日が恋しくなることでしょう。(昨日を生きる。参照)

僕が皆さんに伝えたいことは以上なのですが
なぜ、僕がそう思うようになったか
「デッサン」「観察」「認識」「読解」とは何かを次の章から紹介します。
蛇足に蛇足を生やすような長さなので、夕日を遠く感じる方は読んでみて下さい。


例えば目の前に
白くて一辺の長さが2メートルの正方形が突っ立っています。
個性と言うのは正方形の見方を指していると考えています、
と言うよりは、この見方の経験が個性を作っているのでしょう。

これを
「うん、これは正方形で間違いないよね」で終わらせる人もいれば
「いや、白い正方形と言えるんじゃない?」と捉える人もいます。

更に疑問を持つ人達がいる。
どうやって立ってるんだろう?
本当に正方形なのか?

そうして、その正方形「らしき」物を理解するために
近づいていく人たちがいます。

自分の足を動かし、触ることができる距離まで近づく。
すると、いままで同じ視野に入っていたはずの物なのに
より多くの情報がみえてきます。

あ、白じゃない。光っているから白く見えていたんだ。
たしかに枠は正方形の枠だけど、その中央は凹んでいる。
触ってみると、照明の熱で熱い。
表面は粗めの布で出来ているようだ。
裏に回り込んでみると厚みはない
台座があり、青りんごが飾ってあった。
青りんごを手に持ってみると、りんごの様な重みはなかった。
食べてみるとみかんの味がした。

正方形らしきものから、みかんまで随分と話が飛んでしまったけれど
これは見て、さわって、食べてみなければ決してわかりません。
わからないけれど、一度経験していれば
そういう非常識があるんだ。という新しい常識が身につきます。

その非常識を集めた常識こそが個性であり
その個性とは「観察力」とも言えます。

なぜ観察力なのか

人間の目はフィルターで補正をかけて世界を写しています。

僕がまだ「美術」の基礎の基の字も知らなかったとき
同じレベルのクラスみんなが課題として
同じ石膏像(なんとかりんティウスみたいな名前がついてそうなヨーロッパ人の像)を囲んで「デッサン」を描きました。

初心者だから全然うまく描き写せませんでした。

僕も含めて、出来あがったデッサンをみると
同じ顔をみて描いたはずのデッサンがどういうわけか
みんなそれぞれの自分の顔そっくりになっていたのです。

この現象は
「観察」ではなく「認識」で物を見ているから起こってしまっているのです。
それぞれの「認識」で見える世界がまったく違う景色になってしまいます。

観察(デッサン)初心者の僕は
石膏像のことを「人間の顔」という「認識」で描き始めてしまいました。
だから人間の顔は目がこうで口がこうで、鼻がこうで、、、と
毎朝歯を磨きながら「観察」している自分の顔を「人間の顔」と「認識」しており、自分の顔を石膏像の「人間の顔」と重ねてしまったのでした。
しかも無意識にです。

人間の目はいい加減で、「認識」によって大きく見え方が変わってしまう事を痛いほど思い知らせてくれたデッサンの課題でした。

石膏像は人間の顔をモチーフにした「石」です。
そういう形をした「物体」です。

デッサンをする上では
そういう物体が画角に入っている「空間」なんです。

「認識」の精度を上げていくには徹底的な「観察」をする必要があります。

正確に描写をしていくことは感性を磨くこととは関係がありません。

描写する人間がその空間を紙に描き写すときにやっていることは測定です。
その空間の目印にいくつもの点を設定し、点と点の距離を比率で図りまくって描写していきます。例えば目と目の間の距離は、もう一つ目が入る長さだな。耳の頭の位置は目尻の高さと同じだな。という風に全てが基準に対しての距離であり、感覚で位置を決めることはありません。

タッチの技術に差はあれど、デッサンの上手い下手は
センスの良し悪しではなく、測定ができるか否かに大きくかかっています。
測定という行為はやはり「観察」なのです。

観察と測定と写実が終わった後に、はじめて表現の世界に入ります。
「観察」を終えて初めて「認識」の段階に入る。
つまり「空間」として観察したものを今度はイメージ(認識)=人間の顔に寄せていく。ここからが表現と呼ばれる美術の世界へようこそです。

だから「観察」こそが個性を、自分が認識する世界をつくっているのです。

音楽や美術の土台、いわゆる基礎と呼ばれる技術は
道具を使いこなす技術でも体を思い通りに動かす技術でもなく
この「観察」する力の事を指しています。
そして、この観察する力は美術以外でも力を発揮します。

平安時代の貴族が一生の中で得る情報の量は
新聞ニューヨーク・タイムズの一週間分に満たないそうです。

僕たちは膨大な量の情報社会の中で
会う、話す、手紙を書く、読む。
その他にもあらゆる手段でコミュニケーションを図り
人との接点を持つようになりました。

情報過多の社会の中で、多くのすれ違いや勘違いが生まれ
人を傷つけたり、傷つけられたりする。
なぜそんな事が起こってしまうのでしょうか。

すれ違いや勘違いが少しでも少なくなれば摩擦が少なくなる。
そんな単純な話なのに、どうしていつまでも僕たちはすれ違ってしまうのでしょうか。


それは「読解力」が不足している事が一因となっています。
読解力とは決して相手の言わんとする事を察することでもないし
空気を読むことでもありません。
そんな事をすれば必ずすれ違いが発生してしまいます。
相手の意図を「創作」し「作文」し「決めつけてしまう」ことこそが全ての摩擦の原因であり、他人の心がわかる人間はいません。

読解力がないとどうなるか

単純に会話を例にあげたとき
会話が繋がらない典型的なパターンがあります。

A「Bさん、昨日お願いしておいた議事録は提出できますか?」
B「昨日はお客様と急遽会うことになって、先方の提案を聴いてきたんですよ。」
A「・・・・」

イエスかノーかで簡潔に返事ができる質問に対して、
イエスでもノーでもない回答で結果的に「返事をしていない。」会話です。
いや、会話になっていない状態です。

読解力とは、ひとつの情報から読み取れることと
その情報に関係するまわりの情報から読み取れることを比較し測定し
辻褄が合うかどうかを確認し、整頓をすることです。
感覚でつなぎ合わせることはなく、基準に対しての距離を測ってぴったり辻褄の合う事実を読み解きます。

情報の整頓ができれば「意図」がわかります。
相手がどうして話をしているのか、何を伝えたいのか
手持ちの情報をつなげて、辻褄の合う部分のことを「意図」というのです。

国語のテストでよくある
このとき主人公はどんな気持ちでしたか?という問いに
主人公の気持ちなんてわかるわけないだろ!
などと開きなおる方もいるようですが
それこそ、読解力がない人の典型です。
これは設問者の意図を問う問題ですから
文章と問題を照らし合わせ、情報の辻褄を合わせることで
必ず正しい解にたどり着く「設計」になっています。

読解力とは観察によって裏付けられる事実を発見する力です。

砂嵐のように、今日あった出来事が
明日にはまるで違う景色を生んでいる。
不安で、不安定な情勢が続くいま

僕たちに必要なのは
少しの「優しさ」とあと少しの「理解」だと思うのです。

僕が大切な人を理解しようとする時、
間違いなくその人をよく見て、よく知ろうとする。
その人のすきな物、事、場所、言葉。
きらいな物や事も。


そうして、その人の事実を並べることで発見した人間性を尊重することが、僕に出来る優しさなんだと思うのです。

僕には大切な人がいます。

だから今、僕たちに必要なのはデッサンなんだ。
デッサンとは人を想う「優しさ」ですから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?