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感情と引き換えに音楽性を手に入れた男の顛末

この話は、現代では訓練を積んだ人間だけに違いがわかる純正律とよばれる美しく繊細な和音が使われていた時代よりも少し前に遡る。

人々は病気よりも、黒魔術を恐れた。

やがてくる古典音楽の最盛期に向け、音楽はより難解に発展していった。
狭き門の限られた人間たちが極端な信仰とも言える次元まで音楽は研磨されていった。
この時代に作られた音楽資料の大半が後の大戦で失われ、今日では再現不可能と言われている。

そして男もまた音楽の呪いに取り憑かれていた。
この世界では申し子と謳われてもなお、自身の音楽に満足することはなく
あらゆる和音とリズムの黄金律を呪われたように求めていた。昼も夜も音楽漬けの男は目の下の隈がくっきりと大きく、髭も髪も夏の雑草のように散らかっている。汚れの目立たない黒い服に身を包み、ときどき思い出したように譜面を覗き込む目玉だけが白くチロチロと動いていた。

やがて男は悟ってしまった。
この身体では永遠に黄金律にたどり着けないと。

そして黒魔術にすがるのであった。

黒魔術と聞けばゲームやファンタジー世界のものと思いがちだが
この時代では空気と同じように視認できないだけで、存在しているものだった。
ただし、酸素は呼吸を楽にし、一酸化炭素は命を奪うよう黒魔術にも長短がそんざいした。

男は音楽に憧れた。
音楽に触れるたび、音楽に飢えていった。

黒魔術の取引はこうだ。

享受するもの「人間が到達できる次元を超越し、限りなく音楽に近づく。」
差し出すもの「そして音楽に近づくたびに、人間から遠ざかる。」

迷うことはなかった。
男は人間を捨ててでも憧れの音楽へ近づきたかったのだ。
そうして、人知れず男はこの世界で最後の黒魔術の恩恵を受けたのだった。

喜びも悲しみも、漣もこの星のあらゆる四次元の認識を音楽に変換できた。
それは奇跡と呼ぶほか、適切な言葉が存在できないまさしく黄金律だった。

しかし男は冷静だった。
喜びも悲しみもわすれ、音楽への渇望だけが最後の人間性として残った。
際限のない渇望によって彼が自分の身体を改造するまで、幾日もかからなかった。

一線を超え男は音楽を演奏するのではなく、音楽そのものになろうとしていた。

音楽を体現する最適な形を求め、男の身体は何度も何度も改造されていく。
手を失い、足を失い、言葉を失い。感情を失った。

男はすでに人間ではなかった。
完全なる楽器と化していた。

男は完璧なる楽器であった。
この男の身体をもとに、音楽理論が組まれ星の数ほどの曲が生まれた。
今日では世界中で男の身体を再現した楽器が普及している。
音楽の礎と言っても過言ではない存在となった。
男は、音楽そのものになったのだ。
しかし、感情を失った男は純正律の美しい調べまで失ってしまったのだ。
音楽とは、その美しい調べとは人間そのものであったのだ。

皮肉にも、今日では1オクターブを均等にわけたドレミファソラシドの12音階で表現する平均律が男の残骸として残った。

願いは叶ったが、感情を失った男が満たされることはない。

その時代、男はこう呼ばれていた。
男の名は「クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ」

お察しの通り、我々がピアノと呼んでいる楽器だ。

黒い服に身を包み、髪と髭は雑草のように散らかっている。
目の下の隈はくっきりと大きく、目だけが白くチロチロと動いていた。

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