科学と社会の進み方

さて、はしがきの後、まさかまさかで半年も空いてしまいました。

何やってたかというと、研究をしてた訳なんですが、もやもや考えてる日が続いて、少し作業に追われながら、うーん、と悶絶していました。

少し頭の整理がてら、自分が扱っているテーマを考えてみます。

最近、遺伝子を組み替える新しい技術「ゲノム編集」なる技術を使った組換え食品の流通が開始される…というニュースを、ご覧になった方もいるかもしれません。
ところがこの技術、特に審査やチェックということはせず、善意で作った人たちが申請してくれることを期待する、という仕組みで回っています。
一見ザルのような形に聞こえるこのスキームにした政府に対して、新聞や一部の批判家たちは「政府はきちんと審査すべき!規制すべき!」と言っているのですが、実はよくよく聞くと、これ、何ともシュールな文句になってしまっています。

というのも、この技術、かなりの確率で「変えた」形跡が残らない技術、と言われているのです。
これまでの遺伝子組換えは、組み替える時に使うある種の道具みたいなものが、遺伝子の中に残ってしまい、結果として「組換えた」ことが分かる形でした。
ゲノム編集という技術は、簡便に、安価で、しかもミスやエラーが少ない形で行える遺伝子組換え技術なのですが、実はこの「変に跡を残さない」点も大きな特徴です。
これは、残りカスみたいなものが副次的な影響を与える(予想外の働きをして困ってしまう)可能性を減らす、ある意味ではいい特徴なんですが、一方で組換えた事実をトレースできず、傍目には何も変わらない構図になっている、と。

コレだけいうと、めちゃくちゃヤバイ気もするのですが、実は世の中の遺伝子って、まあちょこちょこ変なエラーが出て、違う形になったりしています。
品種改良はまさにその遺伝子のエラーを効率よく起こしたり、いろんなエラーをもつ品種を掛け合わせて、いい組み合わせになる個体を選んでいく作業。
じゃあ長年かけて作った品種と、ゲノム編集でできた品種に、何の違いがあるだろうか。
言い方次第ですが「取り立ててこの技術だけ悪者になるのか?」とも言えてしまいます。

ただ、さらに話をひっくり返すと、この技術とて、さっき書いたように「ミスやエラーが少ない」けど、「全くない」訳ではない。
つまり、狙った機能を打ち込んだつもりが、変な機能を持ってしまっている可能性もある。
そしてそれが、今ある技術だけでは「見えない」「分からない」可能性もある、と。
そう思うと、また若干怖い気もしてきます。

でも、さらに話をこじれさせると、じゃあ「全く危険がない」技術ってあったっけ、という心配もあります。
当たり前のように使っている技術が、じゃあ全く問題ないかと言えば、そうではない。
さっきの品種改良でいえば、化学薬品をかけて遺伝子を壊したりいじったりする手法は、もう長い間普通に行われています。
それに、自然に起こる突然変異も、時として非常に危ない性質を及ぼすこともある。SARSやHIVなんかはそれじゃないの、という話もあります。
何が危なくて、何が安全なのかは、その時に見ることのできる範囲でしか、分からない。
大げさな言い方をすれば、技術や事実が明らかになったら「実は危ない」となるかもしれない中、僕らは単に「今大丈夫そう」の中でこの技術を使っているに過ぎない…とも言える訳です。

さあ、じゃあ「こんな話がある中で、何で政府は勝手に話を進めてしまったのか!」とおっしゃる方もいるでしょう。
でもこれ、3年以上前から、政府は折に触れて話を出してるトピックなんです。
また、この技術自体はかなり前から「夢の技術!」とテレビで紹介されたりしています。

もちろん、政府の出し方に問題がある、あるいは連携が足りていない、というのはあると思います。
一方で、では世の中側ができることはなかっただろうか。
「事件は会議室で起きた」訳なんですが、映画のように密室ではない会議は、もう少し社会も注目できたんじゃないの、という気がしてきます。
もう大分後になって騒いでいるメディアを見ていると、「あんたら何を取材してたのよ」という気もしてきます(僕はこの手の話題では、マスメディアに対して非常にネガティブな心象なので、この文句にもバイアスはかかっているんですが…)


僕らは二つの大きな課題を突きつけられているんじゃないかと思います。
一つは、こういった話に、アンテナを張っていられるか、ということ。
政府や科学に情報発信を、と求める一方で、僕らは本気で話に関わる気概を持てるかということでもあります。

もう一つは、「価値」についてちゃんと話をする覚悟があるかということ。
さっき触れた「大丈夫そう」は、誰にとっての「大丈夫そう」なのか。
人間が一番最初に手に入れた「火」という技術からして、すでに「絶対安心」なんてものはない中で、「危ないものは全部排除」というスタンスは、夢物語でしかない訳で、僕らは「どう付き合っていくか」を考えるしかないのです。
その時の判断は、必ずしも「エビデンス」でシンプルに決まるものではなく、どう感じるか、捉えるかという「価値」の話になってきます。
この「価値」は人それぞれ捉え方次第の中で、でもみんな好き勝手にするわけにはいかない。社会という一つのまとまりとして進んでいく中で、自分の「価値」と人の「価値」にどう折り合いをつけていくのか。
これは、人任せにしておける話ではない気がしています。

じゃあどうやってその「社会という一つのまとまりとして進める」方法、というのが問題なので、それを研究の中で考えているんですが、その話はまた今度。

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