日本人と「におい」

 日本語の漢字には「におい」をあらわすものがいくつかある。匂い、臭い、薫り、香り、馨。一般に「かおり」というと、良いにおいで、「におい」というと良いも悪いも含まれる。「あの人の香りはくさい」とはあまりいわない。言葉や漢字のバリエーションが多いということは、ニーズが高いということだ。

 五感の中で「におい」だけが、脳の視床を通らずダイレクトに前頭葉で認識される。だから、においという記憶は何年、何十年たっても記憶の引き出しに残るという。たしかに雑踏のなかで、ある「におい」を嗅いだだけで、何十年も前の記憶がフラッシュバックのように蘇ることはめずらしくない。そして、急に鼻の奥のほうがキューッとなって人混みの中、悲しくもないのに涙が出そうになってあたふたしたことも一度や二度ではないはずだ。思い出せないけど、懐かしい感覚だけが蘇ることもある。胸の奥のほうが、なんだかあったかい気持ちだけど、「何のにおい」なのか思い出せない。思い出したいから、もっと嗅いでいたいのに、においは風となり消えてしまう。そんな経験をしたことのある人は、結構いるのではないだろうか。そんなことを思いながら、家人に話したら「そんな経験一度もない」という。すこし変な目で私を見ている。スピリチュアルなことを言っているとおもわれていたようだ。そこで、はたと気がついた。「この人は鼻炎アレルギーで、もともとにおいに鈍感だった」と。嗅覚が鈍いのだ。その分、視覚による記憶が優れているようで、一度見た人のことはどうやら忘れないようだ。価値観の相違とも言えるが、二人あわせれば最強と思うことにする。

 においは、その人の食べるものや生活が大いに関係する。友人の家に遊びに行くと、そのうちの「におい」がある。臭いのでも、良い匂いなのでもない。それぞれの家のにおい」というやつだ。以前読んだ陰陽師の本だか風水の本だかに、それぞれの家にはそのうち特有のカビが生えていて、そのカビのにおいが家臭をきめると書いてあった。もともと日本は多湿の国なので、カビは放っておいてもよく生える。それがさまざまな胞子をとばして、においをブレンドしているのだろう。私の父の実家は、麹やだったので、祖母の家にいくとなんとも言えないにおいがしたものだ。麹を育てる「室(むろ)」が家の中にあり、湿度をあげたり、温度を上げたり下げたりして大切に育てていた。昔の家なので、きちんとした室ということもなく、その麹菌は家のそこここにこびりつき、繁殖していただろう。家のどこにいっても麹のにおいがするので、すこしぐったりしたものだ。アイスを食べていても、チョコレートを食べていても、お寿司を食べていても、鼻先に麹のにおいがするのである。げんなりだ。まあ、私の例は極端だけど、それぞれの家にはその家特有の「におい」があり、それはブレンドされたカビや菌のにおいということなのだろう。

 同じように、国にも匂いがある。空港に降り立つと、独特のにおいがする。あれは何が原因だろうか。あれもカビなのだろうか。いや違うだろう。インドの空港のにおい、ベトナムのにおい、チベットのにおい、ミャンマーのにおい。たしかにちがった。残念ながら、ヨーロッパや南米には行ったことがないので、その国の空港がどんな匂いなのかわからないが、おそらく各空港によって、匂いは違うと思う。たぶん、カビや菌も多少は関係しているだろうが、食べ物や風土、体臭がその国の匂いを作っているのだろう。しかし、自分の家や体臭に気が付かないように、匂いというのは、感じるセンサーが人それぞれちがうというのもおもしろい。

 これも以前、ネイチャーか何かでよんだ話だが、人は自分とタイプのちがう人の匂いを良い匂いだと感じ、特に女性はそのセンサーが繊細にできているということだ。冒頭で書いたように、匂いは五感の中でも原始に近い感覚であり、それは動物として必須の能力だ。虫や動物にとってフェロモンのような分泌液は繁殖に必要なにおいだし、スカンクやカメムシが危険なときに放出する臭い分泌液は生存するための武器である。このように、匂いは生きるために必要な能力であり、フェロモンや臭い匂いを放出できない人間にも、匂いを感知する能力は残っているということなのかもしれない。違う匂いを良い匂いと感じることができれば、自分と違う体質や好みの異性と繁殖することが出来、それは種の保存の観点から見れば、マイナスを保管し合う最高のパートナーということになる。

 仏教では三十二相八十種好という、悟りを開いたものにだけあらわれる特徴がある。その中に「ブッダは毛穴という毛穴からいい匂いを発している」という特徴がある。仏教と直接関係がなさそうではあるが、匂いという感覚が人が生きるための必要な能力であると知っていたからこそ、ブッダはその能力が高いことを暗にしるしたのかもしれない。

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